バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

バレエヨガインストラクター三科絵理

感動は、技術ではなく心が動かす

こんばんは。プレミアムフライデーの夜、みなさんはいかがお過ごしですか。私は今日、情報収集に書店めぐりをしていました。

とあるピアノの指導者の方向けの本を読んでいたときのことです。

ピアノをもっと上達したいと思っている指導者の方々の中には、自信が持てず「敗北感」で悩んでいる人が多いという一節がありました。

プロにならないことへの敗北感や、プロになってもほかの演奏者と比べて自信が持てないということでした。

これは、バレエの世界でも、ヨガの世界でも、当てはまることだなぁと思ったんです。

特に芸術の世界は、どこまで向上させても「上には上がいる」という意識を常に持つことがあります。

行きすぎると、ある種の戒めかのようになってしまい、自信が持てないこともあります。

いずれにしても、やはり謙虚な姿勢を持つ方がとても多いです。

私もそんな気持ちの葛藤がゼロとは言い切れません。

今の私があるのも、こうしたメンタリティーが自分を育ててくれた側面はあるからです。

一方で、他の人へもそういった考え方を押し付けたいとは、まったく思いません。

過去の自分に伝えるならば、行き過ぎた敗北感にとらわれる必要はありません。

「上には上がいる」という意識が過剰になると、その分野を楽しもうとする人=プレーヤーが減ります。

自分は(バレエをするほどの)価値のない人間だ、と思ってしまったら、やめてしまうでしょう。

プレーヤーの数が減ると、文化は消えます。

バレエを楽しむプレーヤーの数が減れば、バレエスタジオも、バレエ公演も減るのは自然なことです。

「文化」というと、仰々しい言葉に聞こえるかもしれません。

でも、ダンスというのは、経済社会の視点では「無くても生きていける」と見なされてしまうようなものです。

学校の科目でも、主要科目に比べたらおまけ程度の存在。

それを痛感すると、やっぱり文化なんだなぁ、と再認識させられます。

文化は人と人とが受け継いでいくものです。

特にダンスは、生の瞬間のアートですから、形に残せる美術品と違って、同時代の人にしか直接伝えることができません。

今のバレエを創作する最前線にいる人々も、かつてのバレエリュスや、ヌレエフを見た人が語りついでくれているから、インスパイアを生み出します。

だから、プレーヤーの存在は、とても大切です。

私は小さな頃からバレエを通じて、たくさんの人の人生に出会ってきました。

夢を追いかけて他のことを犠牲にするくらいに打ち込む人。

挫折して新しい人生を切り開く人。

一度は離れたけれどもまた戻ってくる人。

大人になってようやく憧れのバレエを始められたという人。

70代でもバレエを自分なりのペースで楽しんでいる人。

バレエというアクティビティーだけで、それはもうたくさんの人生模様が浮かんでくるのです。

子供の頃からかなり訓練を積んできた人で指導する能力がある人でも、ピアノの先生のような敗北感を感じやすいものです。私も、葛藤してきた日々がありました。

でも、世間一般からみたら、きちんと訓練を積んでいるわけなので、その人なりの価値があります。

問題は、自分で自分をわかっていないことです。

狭い世界でみれば、上には上がいるのは当たり前ですが、もっと広いマクロの視点でみれば、その人が持っているスキルが誰かの役に立つことはざらにあります。

バレエの世界でそれを貫き通すには、覚悟と勇気もいりますし、厳しい世界です。

だからといって、私も仮に「いえいえ、わたしなんて…」と言っていたら、現在のバレエレッスンの受講生が涙を流して夢を叶えている姿には出会えなかったでしょう。

踊るというのは、体がつむぐ言葉です。

プロの踊りでなければ感動しない、なんて、誰が決めたことでしょうか。

大好きな友人が心を込めて踊っていたり、 あどけない子供が緊張しながらも精一杯踊っていたり、 大人からバレエを始めて勇気を振り絞って踊っている人の姿も、 美しいです。

ときには涙が浮かぶほど感動します。

魂からの声が聞こえれば、どんな人でも心を動かされるものです。

ダンスの原点は、そこにあります。

だから、「わたしなんて」と自信を落とす必要なんて、ないのです。

今のあなたで、いいじゃないですか。

今のあなたが、美しいのです。

とりとめなく、長く書いてしまいました。

私は長く勇気づけに悩んできた人間なので、少しでもこれを読んでくださった方への勇気にもつながったらいいなと思います。