バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

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私が感じるクリムトとベートーヴェンの共通点

バレエ《星彩歌》の主題である、ベートーヴェンとクリムトという、音楽家と画家の2人の巨匠芸術家の共通点は何か…。

私が思うのは、保守的な伝統から離脱して新しい時代を開いたという点です。

クリムトは1862年のウィーン生まれ。

かつてのウィーンの街では、1824年にベートーヴェンが交響曲第九番を発表していました。

初演の会場となったケルントナートーア劇場

そのわずか約3年後(1827年)には、ベートーヴェンがこの世を去ります。当時のウィーンは、ヨーロッパ音楽の中心地で栄えていました。中でもベートーヴェンは、当時の伝統的な形式や技法を独自につくりかえて、新しい表現方法への挑戦を行っていたことが他の音楽家たちへも大きな影響を与えました。

特に交響曲第九番は、それまで管弦楽のみで演奏をするのが当たり前だった時代に、独唱と合唱を交えて、詩の言葉の意味を表現するという点が交響曲には斬新な打ち出し方となり、革命的な出来事でした。

ベートーヴェン以降、ほかの音楽家たちも追随するように、形式を守ることに固執しすぎず、独自の音楽性を表現しようとする流れが広がっていきました。そんな歴史を後世の専門家たちが1900年ごろまでの音楽家たちをグルーピングして「ロマン派」と位置付け、「ベートーヴェンはロマン派の先駆けであった」と呼ぶようになったのです。王侯貴族の嗜みであった音楽が、徐々にヨーロッパのナショナリズムの勃発により、台頭してきた市民階級へと広がっていったのです。音楽家は上からの命令で音楽を書くよりも、自分たちの感情を表現するという、それまでになかった取り組みをするようになっていきます。

クリムト 接吻

ベートーヴェンが亡くなってから約35年後に生まれているクリムトはもっと後の時代のウィーンの画家です。

この頃はオーストリア=ハンガリー帝国が帝国主義の時代にあり、ベートーヴェンの頃よりも近代化が進んでおり、日本文化がヨーロッパ世界に知られはじめジャポニズムが起こり様々な影響を受けて進んでいる頃です。

クリムトは創立まもない工芸美術学校を卒業し、同じく画家の弟と友人ともに、公共の劇場や美術館などのさまざまな仕事を受けるようになっていました。いち早く工業化の進んだイギリスを追いかけるように、ウィーンやオーストリアの主要都市がますます近代化していくまさにそのときに劇場装飾や天井画、さらには皇妃エリーザベトの別荘の絵画などまで手掛けていたのです。まさに国を代表する芸術家へと進むキャリアを築いていました。

ハプスブルク展2019年公式ツイッターより
いま上野でこちらのエリーザベト皇妃の肖像画が観られます。

しかしながら、安定的な仕事と、自分独自の表現への追求は両立しにくかったのでしょうか、クリムトは前衛的な取り組みをしようとすると批判が起こるようになります。

1894年32歳のころ、ウィーン大学の講堂の天井画の一部を担当するも、女性の裸体の性的な表現が物議を醸し、挙げ句の果てには契約を解除せざるを得ないほど、クリムトの独自性と社会性の乖離が生まれてしまいました。

クリムト 医学

これを機に国の仕事は一切やらなくなったと言います。

私個人的な視点ですが、絶対王政が崩れて新しい政治体制、独立運動、そして新大陸アメリカのような王政のない国が台頭するこの時代、クリムトのような芸術家が国の指示の言うがままに作品をつくるというのはかなり時代遅れに思っていたのではないかという点です。もちろん若い駆け出しの頃には仕方ないと引き受けることはあっても、成果として勲章を授かっていますのである程度の目標達成とそれから先の独自性というのを意識していた方が自然なのではないかと感じています。実際のところどうだったのかは分かりませんが…。

そして保守的な芸術家団体と距離を置き、前衛的な新しい取り組みをしようと仲間を連れて「ウィーン分離派」という団体を率いることになります。クリムトはその団体の初代会長であり、ウィーン分離派の勢いをつけ意欲的な取り組みを広げていきました。あらゆるテーマの展覧会を催し、さまざまな芸術家の総合表現の場として挑戦をしていました。

過去の伝統にならって保守的な立場を貫こうとする流れから離脱してウィーン分離派を立ち上げていたというのは、やはりベートーヴェンの革命的なスタンスとよく似ています。

ウィーン分離派のある展覧会でベートーヴェンが主題となり、その中でクリムトは《ベートーヴェン・フリーズ》という第九をテーマにした壁画を描いたのでした。

クリムトがどこまで革命的なことを意識していたかは分かりませんが、音楽性からさらにクリムト個人の精神性や内的表現をも提示することになりました。個人の感情や想いを打ち出すという意味では、やはり似ている部分でもあります。

ただ、ベートーヴェンの第九は初演から大喝采でしたが、クリムトの《ベートーヴェン・フリーズ》は賛否両論の批判を受けることになります。

やはりクリムトならではの独特な女性の描き方、性的な表現が前衛的で多数の人々には受け入れがたかったのでしょう。批判が多かったとしても、それでもやはり、壮大なインパクトがあったということは間違いなかったのだと思います。

いまやこの作品の意義が着目され、私は天国のクリムトはどう思っているのかなと思います。

時代がやっと追いついたのか、もう遅いと言っているかもしれませんね。

先見の明をもつ革命家が背負う宿命だったのでしょうか…。