バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

バレエヨガインストラクター三科絵理

「クララとお日さま」ロボットに感情移入した感想。人間と人工の境界が薄らいでいく

ノーベル文学賞2017年受賞の小説家 カズオ・イシグロ氏による新作「クララとお日さま」を読んだ感想です。

「クララとお日さま」については2021年に書店で大きく平積みされていたので知っていましたが、その時は見送っていました。

実際に読もうと思ったのは最近のクラブハウスでAIの話が盛り上がっているため、人型ロボットと人間の架空の物語から視野を広げようと考えたのがきっかけです。

クララとお日さま

(Amazon より)

一番最初にクラブハウスでAIの話をしたのは、こちらの回でした。ゲストの濱田先生が話題の一つに紹介されていました。

「好奇心の研究にふれる」研究者濱田太陽先生 クラブハウスでの私の感想 - バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

ネタバレがありますので、気にされる方はご注意ください。

登場人物 人型アンドロイドと人間

主人公は、人間がテクノロジーで作り出した架空の人型アンドロイド(ロボット)です。

「クララとお日さま」の世界では、人型アンドロイドは「人工親友(AF Artificial Friend)」と呼びます。

人工親友というロボットは、男の子も女の子もいて、みんな自分の名前を持ち、知能となるインテリジェンスをなんらかの形で持っており、会話もできます。

そして、スマホのように最新型製品も続々と生産されていき、同じ世代のロボットでも個体によって少し性格や知能のバランスが違います。人間でいう個性のようなものです。

タイトルになっている「クララ」は、この人工親友のアンドロイドの名前です。人のような名前を持ち、人のように会話をしたり、人のような体の動きを真似できます。

「クララ」は人工親友の販売店で誰かが購入するのを待っていました。

いろんな客がやってくるも、実際に購入したのは「ジョジー」という女の子とその家族でした。

人工親友は子どもの成長期に主に使用されていて、親が面倒を見れないときや、友達とのコミュニケーションの代わりに、相棒のように一対一で人間に付き添います。

考えてみればスマホも一人一台。ドラえもんものび太くん一人にドラえもん一台。そんなイメージでしょうか。

人工親友のクララは比較的同世代の中では賢いアンドロイドで、人間の複雑な感情を読み解くことも得意であったようです。

タイトルの「クララとお日さま」のお日さまは何なのか、については実際に読んでお楽しみください。

気づけば物語で一番アンドロイドに感情移入していたのが意外

お話を読み進めて冒頭でこのような状況設定がわかってきます。そのうち私の頭に疑問がよぎりました。

「アンドロイドの気持ちって、読み手の私は想像できるのかなぁ?」

どういうことかというと、最近でもロボットやAI機能で会話ができるシーンが少しずつ実用化されてきていますが、試してみるとやはり相手はロボットなんだということを再認識してしまい、こちらの気持ちを理解してもらうのは難しく、またロボットの気持ちを私が感じるという経験はほとんどしたことがありません。

「オーケー、Google。今日の天気は?」

「hey Siri。タイマーを30分かけて。」

こういうやりとりならCMでも見かけるくらい昨今急に浸透してきました。

言葉を交わすという流れは実現できても、感情のコミュニケーションという次元はまだまだ未来のことだと思ったからです。

でも、予想はポジティブな形であっさりと裏返されました。

結論から言うと、読み終えた私は物語のどの人物よりも、アンドロイドである「クララ」に同情して、共感して、幸せを願っていました。

「クララとお日さま」の世界で、すっかり人工親友に感情移入していたのです。

もはや小説の早い段階でそれに気づいていました。

だから先を早く読みたくて、クララがどうなるのか、心配になったり、展開に好奇心を持ち、とても気になりました。

私の心境の変化は自分でも意外でした。ある側面ではこれも「不気味の谷現象」と思ってしまいそうなくらい、自分がもともと考えていたことと外れた現象が起こり「あ、あれ… 私すっかり人工親友の存在感にのまれている」と、不思議な(ちょっと不気味な)感覚でした。(※不気味の谷現象については、クラブハウスの話題にしたことなので、またのちに書きますね。)

さすがノーベル文学賞小説家のカズオ・イシグロ氏。このように、私のみならず世界中の読者をグッと引き込んでいるのです。

人工親友の人生に自分を重ねて見る瞬間までもあった

人工親友はロボットなのですが、その人生(ロボット生とも言うべきか)を見つめていると、まるで一人の人間ドラマを見ているようで、喜び、悲しみ、悔しさ、もどかしさ、悲嘆、いろんな感情が見えてきます。

すると、まるで「あ… そういうの人生にあるよね」と、自分の人生を重ねて見る瞬間までもありました。

読む前の予想と反対に、ロボットを見て自分の人生の喜怒哀楽を重ね合わせて眺めることがあるとは…(しかも自分が生きている間に!)という気持ちでした。(苦笑)

もちろん架空の物語なので、ある種の思考実験のようなことなのですが、段階を踏まえていくとリアルにこんな心理を経験してしまうんだと驚きました。

例えば、クララがお店にいるときのことです。誰かに買ってもらわないと人工親友としての人生が始まらないも同然。

赤ちゃんが親を選ぶ…というわけではないのですが、人工親友を選ぶ人によってその後の家庭が決まり、暮らしが決まり、主従関係になりますので全てが決まります。

それは販売商品である人工親友にとっては、切実な問題です。

少しでも良い思いができそうな人に買って欲しい、とみな思っているのです。

そして、自分の機種よりも新型が登場すると不安と脅威になりえます。

誰でも新型テクノロジーのほうが欲しがります。自慢にもなります。

新型ばかり売れて自分が売れ残ったらどうしよう。そんな不安もつきまとうのです。

人間は存在価値を哲学や宗教などの視点から答えを導こうとします。

人工親友はあくまで機械なので、売れ残って用無しならば処分行きです。

また、必要とされなくなったらやはり用無しです。

人間は生物的な寿命の時間が経過すれば死を迎えますが、アンドロイドにとっての用無しというのは生物的な死とは違う、残酷さと脆さを感じました。

人間が利便性を追求して製造したアンドロイドとはいえ、人間のような知識・知覚・意思決定・判断ができている状況に対して、用無しになりえるというのはとても切ない気持ちになります。

もちろんこれらもみな架空の出来事なのですが、新しい視野の気づきを得られました。

人間と人工の境界が薄らいでいく?

テクノロジーの進化とともに、便利な日常生活がアップデートされています。

iPhoneやスマホ、タブレット、インターネット、YouTube、家電、医療、消費活動に至るまで、便利なテクノロジーが日常に浸透していると、気づけば「あるのが当たり前」になっています。

最近よく感じるのですが、文字と文章を書くのにペンと紙で実際に書く機会が減ってきています。

みなさんもきっとスマホでTwitterに投稿したり、メールをキーボードで書いたり、ちょっとした文をスマホで書くという頻度が多いのではないでしょうか。

紙でお手紙を書くことも珍しい時代になっています。

多くの人は、手書きよりも指とキーボードで文字を書くことの方が圧倒的に多いのではないでしょうか?

ともすると、私たちの文字は指とキーボードで考えているのかもしれない…と言い表したくなるほどです。

つまり、テクノロジーが浸透してくると自分の存在と思うものにテクノロジーが入り込んできています。

体の一部のように便利に使っているので、人間なのか人工なのか境界線がどんどん揺らいでいくのではないでしょうか。おそらく、その基準を決めるのは見る人の価値観なのでしょう。

「クララとお日さま」でもアンドロイドが人間に置き換わることができるのか?という究極の問いかけが出てきます。

何か調べ物をするときも自分で考える前にGoogle検索をしたり、自分が歩いてきた道を地図で調べてもらったり、コミュニケーションを絵文字だけで伝えたり、どんどんテクノロジーに依存する生活は増えていくでしょう。便利であるほど身近な形で、そう意識せず無意識的に私たちと一体化していく側面があるのかなと個人的に思います。

そうした見方をすると、人工親友というのも、人間対アンドロイドという構図ではなくて、もう少し人間にとっての「自分の一部」のような形も現れてくるのかなぁと思います。

「クララとお日さま」の世界がそのまま実現しなくとも、今の私たちがアンドロイドに対する観念や先入観を見つめ直し、そして人間は一体どういう存在なのだ?という問いかけにもなる面白い小説でした。

SFのような物語に聞こえてしまうかもしれませんが、私は普段あまりSFは読まないものの、この作品はそういうジャンル設定と一線を画すような存在感を漂わせるものでした。

また、バレエ「コッペリア」の仕掛け人形のようなものは、アンドロイド的な存在とも重なるものを私は感じてしまいます。

分厚いページを読み進めるのが大変なときは、オーディオブックも便利です。(私も時短で隙間時間に活用しました)

気になる方は、ぜひお手に取ってみてください。