1909年〜1929年にディアギレフのバレエ・リュスが解体になった後の、バレエ ・リュス・ド・モンテカルロについて紹介します。
ドキュメンタリー映画バレエ・リュス予告編
バレエ ・リュス(ロシア・バレエ団)は興行主セルゲイ・ディアギレフが1929年に亡くなってしまうと、すぐに解体してしまいました。
それでも人気は途絶えず、ヨーロッパを中心にロシア出身のダンサーやパリ界隈に活動する芸術家たちのアヴァンギャルドな取り組みはその後の人々にも影響を与えていました。
1930年にロンドンでバレエ・リュスのガラ公演を開催する運びになり、その時に2人の男性が新しいバレエ・リュスを復活させることに手を組みました。
モンテカルロの二人の男
- バジル大佐(ロシア人 強気なリーダータイプ、第二のディアギレフに憧れていた)
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- ルネ・ブルム(モンテカルロ歌劇団 物事を冷静に穏やかに進めていくタイプ)
一見タイプの違う2人でしたが、同じ目的をもってバレエ・リュスの復活を目指し、「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」を立ち上げました。
1932年から公演を実施していきます。
バレエ・リュス・ド・モンテカルロのはじまり
芸術監督は最初にジョージ・バランシンを任命しました。バランシンは、ディアギレフ時代から才能を認められ若手振付家として活動していました。
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ディアギレフ時代のダンサーたちはバラバラになっているため、若手ダンサーもふくめて集めていくことが急務となりました。
そこで、バランシンは才能ある若い女性バレリーナを探し、3人の「ベビーバレリーナ」と呼び女性バレリーナの魅力を打ち出しながらバレエ団の人気を集めていこうとしました。
13-15歳ごろの若さで急に抜擢されたベビーたちは、まだ大人になる前で母親たちが巡業ツアーに同行するほどでした。
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タマラ・トゥマノワ
タチアーナ・リヤブシンスカ
(あともう1人はイリーナ・バローノワ)
ほかに、ディアギレフ時代に活躍していたロシア帝室バレエでのベテラン振付家でもあるミハイル・フォーキンも関わり、レ・シルフィードなどの名作が継承されていきます。
そして、バランシンにとってライバルになったであろう若手ダンサー兼振付家が登場します。それは、レオニード・マシーンです。彼は人気のあるダンサーで、バレー団の運営をするバジル大佐とルネに気に入られていました。
Leonid Fyodorovich Myasin - definition of Leonid Fyodorovich Myasin by The Free Dictionary
1932年バランシンが一時バレエ団から離れていた時に、芸術監督が知らぬ間にレオニード・マシーンになってしまっていました。その後、マシーンがバレエ・リュス・ド・モンテカルロを率いて行きます。
バランシンにとっては残念な事でしたが、1933年にはアメリカへ行きバレエ学校を設立します。パトロンの勧めでバレエ団を作るように説得され、バレエ学校を最初に作り、卒業生が活躍できる「アメリカン・バレエ」をつくりました。(現在のアメリカン・バレエ・シアターに発展)
芸術監督レオニード・マシーンは、振付家としても才能を表し、新しいバレエ作品を次々に作り出しました。
バレエ団は二つに分裂
後にバレエ団はメンバーが入れ替わったり、新しい作品を生み出していきながら、2つに分裂していきます。
バジル大佐と芸術監督マシーンの方向性が食い違うようになり、バレエ団が分裂することになりました。
どちらがバレエ・リュス・ド・モンテカルロの名前を継承できるか裁判になりました。
バジル大佐側
「オリジナル・バレエ・リュス」という名前で活動することになりました。
Original Ballet Russe - Wikipedia 1937年シドニーでのペトルーシュカ
マシーン側(ルネ・ブルムと)
もともとの「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」の名前を使うことに勝訴して活動を続けます。
両団とも各方向で励むも第二次世界大戦で一変
バレエ団がそれぞれの活動で励み、大きな舞台はアメリカを目指すことになっていきます。
アメリカツアーを契約するのにどちらのバレエ団が契約をとれるか、難航したり苦労するも、その間に第二次世界大戦が勃発します。
両団ともロシア人たちは国籍を失うことになってしまいました。
世界的な混乱により、巡業ツアーどころでは無くなってしまいます。
バレエ団としては困難もありますが、バレエ ダンサーたちはブロードウェイや映画でも活躍します。
例えばレオニード・マシーンは「赤い靴」「ホフマン物語」に出演。
他にも団員数名で参加している作品もあったり、人気が伺えます。
ナタリア・クラソフスカご本人は映画バレエ・リュスのインタビューで「チャップリンが花束が届いた」と言っています。
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その後の結末は、バジル大佐側は1952年に解散してしまい、マシーン側は戦争開始後もアメリカに残留して地方のツアー巡業を行って精力的に活動していましたが、1960年代には活動が終わっていきました。特にレオニード・マシーンはのちに経済的な問題を抱えて監督業が続かなくなったことも影響して、求心力が低下していきました。
ロシア・バレエというバレエ・リュスの本来の姿よりは、アメリカ大陸の文化を吸収しながらアメリカや南米の現地ダンサーも採用したりして、アメリカ文化に移っていきました。
実力のあるダンサーたちは戦中もアメリカに残ることも多く、他で活躍の場を見つけたり、自身のバレエ団を設立したりするようになっていき、結果的にはアメリカ内でもバレエの拠点が増えていきます。
代表的なダンサーには、ディアギレフ時代からのベテランダンサー、アレクサンドラ・ダニロワというバレリーナがいました。ロシア出身で、サンクトペテルブルクのマリインスキー 劇場で学びダンサーになった人で、その後バランシンとともにバレエ・リュスに参加し、アメリカに帰化、ブロードウェイでも活躍した人物です。
また、マリア・トールチーフというバレリーナは17歳ぐらいでバレエ・リュス・ド・モンテカルロに参加し、バランシンと結婚していたほどアイコン的な存在で(その後離婚)、ニューヨークシティバレエのプリマとして長年活躍しました。アイゼンハウアー大統領に1953年のウーマン・オブ・ザ・イヤーに選出されています。引退後はシカゴシティバレエ団を設立しています。
ディアギレフ時代は、ロシアで成熟したバレエ が、バレエ・リュスによってヨーロッパに広まり、バレエ・リュス・モンテカルロ以降はさらにアメリカ大陸へとバレエ が広まっていく影響が広がりました。
現存の多くのバレエ団は20世紀に設立されているところが多いです。
第二次世界大戦の荒波にも負けずにバレエ公演巡業を巡っていた精力的なダンサーたちの姿には、心を打たれます。
関連資料
今回の記事に関連して、クラブハウスでトークを開催しました。
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ディアギレフ時代以降のバレエ ・リュス バレエルーム💕🔰OK!芸術・美学・解剖学ゆるく語る部屋 #19 - 愛と癒しのバレエCLUB