日本にはいつバレエがやってきたと思いますか?
バレエ・リュスと同時代のバレリーナで、1922年の日本にバレエが知られていない頃に来日公演を回ったロシア人ダンサー、アンナ・パヴロワのストーリーをご紹介します。
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おいたち
1881年 ロシア サンクトペテルブルクで生まれる。2歳で父が亡くなり、母子で暮らす。病弱な子ども時代を過ごす。
1890年 8歳で初めてバレエをマリインスキー劇場にて「眠れる森の美女」鑑賞する。バレリーナになることを決意する。
1891年 10歳でサンクトペテルブルク帝室バレエ学校に合格する。皇帝アレクサンドル3世らの下で帝室バレエ学校の生徒としての催し物、食事会などからもバレリーナらしさを学ぶ。
1899年 18歳 優秀な成績でバレエ学校卒業。帝室マリインスキー劇場に入団。14人の卒業生が入団。
1901年 入団して翌年でプリマバレリーナになる。以降、バレエ団の芸術監督マリウス・プティパのもと主演を多く演じる。ジゼル、海賊、ラ・バヤデールなどで人気を集める。
1902年 ディアギレフと出会う。今後生涯のパートナーになるダンドレとも出会う。
1906年 ニジンスキーと初共演「ドン・ジョバンニ」
1907年 初めて「白鳥」(瀕死の白鳥)を慈善公演で踊る。
1908年 ラトビアのリガで公演を行う。これを機に海外公演への熱意が高まる。
1909年 ディアギレフのバレエ・リュスに参加。「アルミードの館」「レ・シルフィード」を踊る。
1910年 バレエ・リュスを離れロンドンへ行く。ミハイル・モードキンをパートナーに踊る。
1911年 自身のバレエ団を設立し6ヶ月アメリカで巡業。
1913年 マリインスキーバレエ所属を辞め、自由に世界中へ巡業することを決心する。
1914年 第一次世界大戦勃発。ベルリンにいたがバレエ団を連れてヨーロッパを脱出。アメリカに辿り着き、予定が白紙の中、映画出演の出演料で売りに出されていたボストン歌劇団を買う。オペラとバレエの合体した興行を9ヶ月行う。
1919年 世界巡業をさらに本格化する。
1922年 初のアジア公演の最初に日本に来日。帝国劇場で公演する。その後、神戸、岡山、広島、下関、長崎など11都市を回る。他、中国、インド、マレーシア、フィリピン、エジプトなど
1923年 ロンドンで日本のための関東大震災チャリティーに出演
その後も精力的にミャンマー、ジャワ島、南アフリカ、オーストラリアなども巡業。
1929年 ディアギレフが亡くなる。
1930年 49歳 イギリスで最後の公演
1931年 オランダへ向かう列車事故で雨に打たれ発熱し、肺炎と胸膜炎に悪化。バレエが踊れなくなるという理由で手術を断り、1月に亡くなる。
バレリーナになりプティパ作品の主演を務める
アンナ・パヴロワは未熟児で生まれて栄養失調気味の体質であったそうです。それでもバレエ学校に入学したくて、劇場で見たバレエのイメージを膨らませて厳しい試験に挑んだのだそうです。見事合格できた後、マリウス・プティパなどの名教師の指導を受けてプリマバレリーナになりました。ロシア皇帝はバレエが好きだったため、バレエ学校や公演の支援も行われ、生徒は礼儀作法から学んでいました。プロになってからもチェケッティの個人指導を受けてからバレエ団の練習に参加して技術を高めることを惜しまず努力をしていた熱心なバレリーナでした。
バレエ・リュスから離れ世界公演へ
プリマとしての人気を得ながら、帝室バレエの海外公演に出向くようになり、スウェーデン国王にも直接会いバレエを気に入られるなどの経験をしながら、「海外でバレエを披露したい」という欲が高まっていきます。ディアギレフのバレエ・リュスには、パリの初回公演にはスケジュール上参加できなかったのですが、そのツアー途中から参加します。しかし、バレエ・リュス一団はディアギレフの個性が強く、ワンマンの運営体制に馴染むことができなかったため、アンナ・パヴロワは自分自身で誰の庇護も受けずに活動していくことを決めます。
瀕死の白鳥と、振付家ミハイル・フォーキンとの友情
ミハイル・フォーキンとは学生時代から知る年の近い学友でもあり、プロになってからはお互いにバレエダンサーと振付家という関係で親交を深めていました。
特に「瀕死の白鳥」はアンナ・パヴロワのために創作した作品であり、アンナが踊ったすばらしさにのちのバレリーナがしばらく踊らなかったほどでした。以降マイヤ・プリセツカヤが踊り、今では現代のバレリーナに踊り継がれています。
日本での来日公演 芥川龍之介も観劇
日本の帝国劇場でアンナの初めての来日公演が行われました。瀕死の白鳥や、ショピニアーナ(レ・シルフィード)などを踊りました。まだ日本人にはバレエというものを見たことがない人が多かったため、文化交流としても大きな影響を与えました。芥川龍之介もこの帝国劇場で鑑賞していました。
アンナ・パヴロワ本人にとっても、異国の日本文化は興味深かったそうで、日本舞踊などもインスピレーションを受けていたそうです。
この時代に戦争の合間を縫って、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アジア、エジプトなどの世界中に芸術を届けたというのは並大抵のことではありません。現代よりも長旅の大変さもありながら、忙しい日々の舞台生活と巡業経営を回していました。
このような女性がいたことで、日本のみならず、20世紀のバレエがあっという間に世界中へ広まった一因になっていることと考えられれます。
みなさんももっとご興味をもったら、アンナ・パヴロワの足跡に触れてみてください。
バレエリュスに誘われるも、我が道を行くと自分のバレエ団を立ち上げ、来日公演もしたバレリーナ✨エジプトやオーストラリアもいろんは大陸行っていて、当時長旅本当大変だったんだろうな…💦
— Ballet Yoga 🎀 ERI 三科絵理 (@mishina_eri) 2022年9月9日
アンナ・パヴロワのおいたち 日本でいち早くバレエを披露したバレリーナ https://t.co/2yHER72wI5
1900年代前半でまだ西欧式の舞台芸術を見たことがない地域での反応が、日本も含めて、とても興味深い。。。✨
— Ballet Yoga 🎀 ERI 三科絵理 (@mishina_eri) 2022年9月9日
日本ですら明治、大正となったばかりで、西洋式の劇場がほぼ無かったころ。
そう思うとこの100年くらいの進化はかなり凝縮されているような。
書ききれなかったのでまたのちに。
「アンナ・パヴロヴァ」の写真が素敵すぎる💕そして書いておられるのがマーゴ・フォンテーンという…👏こんなにうっとり見れる歴史写真は貴重💓 pic.twitter.com/bCvb4ywCix
— Ballet Yoga 🎀 ERI 三科絵理 (@mishina_eri) September 8, 2022