振付家ジュール・ペローはロマンティックバレエの時代から、ロシア帝室バレエの成長期に首席バレエマスターも務めた振付家です。
名手のカルロッタ・グリジというバレリーナの公私パートナーとなって、ペローが振付をし、踊った数々の作品で、最も有名なのが「ジゼル」です。
エスメラルダは初演を手掛け、幻の名作パドカトルも振り付けたこの時代の代表的な男性ダンサー・振付家の人生を見てみましょう。
ドガの絵に描かれている教師ペロー
このドガの絵は多くの人が知っている絵画「バレエのレッスン」(1874年)です。
これはドガがパリ・オペラ座のバレリーナを指導しているジュール・ペローが描かれています。描かれた当時はペローが引退してしまっていたので、ドガは実際にこの風景を見て描いたわけではなく、想像の中で描いた風景です。
それでもこの象徴的な絵にふさわしい人物であったくらい、ペローは歴史に重要な功績を果たしました。
「ペローは空気の精、男タリオーニだ」辛口のゴーティエが賞賛
ジュール・ペローはパリ・オペラ座のダンサーとして有名で、批評家でジゼルの台本作成をしたゴーティエが誉めるほどの腕前でした。
静かな敏捷さ、完璧なリズム、そしてゆったりとした優雅さ…ペローは軽やかさそのもの、ペローは空気の精、ペローは男タリオーニだ。」
ここで言っているのは、マリー・タリオーニのことです。ラ・シルフィードで大人気となった彼女の軽快な妖精のスタイルが、男性のジュール・ペローも負けてはいないということを表す独特の言い回しですね。
さらにゴーティエは、男性批評家として男性ダンサーを普通見るのは嫌なくらいなのに、ペローに関しては見事だと言っているくらいです。(ゴーティエ曰く、ハンサムではないが、腰から下は素晴らしく芸術的であると褒めています)
表面的な見え方だけでなく、踊りでストーリーを表現することを一歩前進させた
ペローの振付家としての功績を理解するのに、こちらの批評家を引用するとわかりやすいです。
これまでわれわれがバレエに求めたのは、優雅な姿勢、形の美しさ、軽さ、スピード、それに力強さだけだった。今われわれが見るのは、ダンスで表されたストーリーである。肉体の動きひとつひとつが心の動きをあらわにし、何らかの感情を表す。まなざしひとつひとつが話の進行に結びついている。これは振付の世界における新しい発見である」
R・ゾトフ「ノーザン・ビィ」誌の批評家 ジゼルという名のバレエ (クラシックス・オン・ダンス) p53
私たちは当時のバレエも、それより前のバレエも、生で見る事はできないものの、当時生でペローの仕事を見ていた批評家の言葉はイメージの助けになります。
表面的な踊りの姿勢、形、軽さ、スピード、力強さだけでは、物語を表しているとはいいがたいこともあるでしょう。
それよりも、作品と一体化して、ダンサーが物語の役を生きているくらいのレベルまで、技術をものにして心の動きを表すことのできる次元に高めたというのは、バレエの芸術性が洗練されていくターニングポイントであったことがわかります。
ジュール・ペローとカルロッタ・グリジJules Perrot - Wikipedia
サーカスからパリ・オペラ座、ロシア帝室バレエに
ジュール・ペローの生い立ち
1810年 フランス・リヨンに生まれる。父はリヨンの劇場の道具方主任
9歳で父はジュールをダンス教師に預けてしまう
1818年 リヨン大劇場で初舞台。道化に憧れ真似しながら身につけていく
1820年 10歳で単身パリに行く。昼は給仕を、夜は舞台でエキストラをしていた。パリで有名な男性ダンサーオーギュスト・ヴェストリスに習う。
1823年 有名な道化シャルル=フランソワ・マズリエのスタイルを体得し、パリのゲテ座に加わる
上下とも有名な男性ダンサー オーギュスト・ヴェストリス
After his retirement he trained many famous dancers of the 19th century including August Bournonville, Marius Petipa, Lucien Petipa, Fanny Elssler, Jules Perrot and Marie Taglioni.
1826年 さらにパリのポルト=サン=マルタンに移籍。人気を博す
1830年 クラシックのスタイルも体得して、パリ・オペラ座のダンサーとしてデビュー。マリー・タリオーニとも踊るが、やがてマリーはスタイルが似ていることに警戒し組まなくなる。
1834年 若きバレリーナ、カルロッタ・グリジとナポリで出会う。当時17歳くらいの9歳年下のグリジは抜擢のチャンスを得て、ペアを組み7年くらい内縁の妻となる。
1841年 ジゼル初演 カルロッタ・グリジが踊るジゼルのパートをジュールが振り付ける。公的には振付者ジャン・コラリだけが記載され、ジュールは名に入っていないが、二人の関係性も含めて周知されていた。グリジは、マダム・ペローと呼ばれる。なかなか本命のオペラ座の振付家には雇われなかった。
1824年 ロンドンのハー・マジェスティーズ劇場の振付助手に雇われる。(アンドレ・デェーの下)
1843年 バレエマスターになる
1844年 エスメラルダ 初演 ファニー・チェリート主演
1845年 パ・ド・カトル 初演 マリー・タリオーニ、カルロッタ・グリジ、ルシル・グラーン、ファニー・チェリートの4人がロマンティック・バレエの名バレリーナとして共演したが、振付は残っておらず幻として語り継がれている作品。作品のあらすじがなく、純粋に踊りを楽しませることを追求したスタイルも珍しかった。
1848年 ファウスト 振付 ファニー・エルスラー主演
1849年 妖精の名付け子 振付
1851年 ロシア帝室バレエでバレエマスターになる マリウス・プティパが部下
1856年 海賊 マジリエの初演版を改訂してロシアで発表
1860年 妻 カピトリーヌ・サモフスカヤと子供たちとフランスへ帰国
1864年 ミラノを最後に引退
1875年 エドガー・ドガ バレエのレッスンを描く
1892年 ブルターニュで亡くなる
いかに子供の頃から踊ることが好きだったかが伝わりますね。
踊ることを追求し続けて、ダンサーとしてもバレエマスターとしても頂点に到達したという強い魂を感じます。
「ダンスすることそれ自体に表現力を持たせること」が画期的だった振付家
当時はまだ現代のような作品の数が世界中に少なかった頃、ジュール・ペローは当時としては古典も抽象もバレエにした振付家でした。いずれにしてもジュール・ペローは振付家としても高い評価を得ていました。
何が特徴だったのでしょうか?
「ダンスすることそれ自体に表現力を持たせることである。」ジゼルという名のバレエ (クラシックス・オン・ダンス)
ペローは自身も高い技術の持ち主でしたが、技術が表現よりも誇示されることを良しとしなかった振付家でした。たとえ技術を披露するとしても、それは表現のためであって、単にお客さんを楽しませる余興ではなく、「ダンサー同士の交感」でなければならないという哲学を持っていました。
また、複数人のダンスのアンサンブルでも、当時は全員が同じ動きをすることは一般的でしたが、各役柄の背景を無視した踊り方は好まず、しっかりと役の表現も踏まえて振付をしていました。現代では様々なスタイルが存在しているので、私たちは見慣れているところもありますが、当時のバレエにおいてはスタイルが画期的でした。
また、リアリティにあるテーマで絵になるバレエが多いというのも、パドカトル、海賊やエスメラルダ などに共通するポイントですね。
ただ、バレエマスターとしては、プティパなどの方が重要視されやすく、ペローの存在感が置いていかれがちですが、プティパが活躍できたのも先輩のペローの時代の礎があったからこそです。
ペローが作り、消滅しかけたジゼルを後世に残したのもプティパです。
エスメラルダも、海賊も、バレエファンにとって大好きな作品ですね。
今後もペローの関わったバレエ作品に触れていきますので、ぜひジュール・ペローのことも親しみを感じていただけたら幸いです。
カルロッタ・グリジについて