Art & Ballet プロジェクトのバレエ作品《ニンフィア》にちなんで、「モネという画家がどんな人物だったのか?」について見ていきましょう。
連作「睡蓮」のために晩年「水の庭」を造ることから絵を描くことを始めていたモネは、いったいどんな眼差しで見つめていたのでしょうか。
実際にオランジュリー美術館で鑑賞した思い出も交えながらまとめてみました。
クロード・モネ(1840〜1926)
パリ生まれ、幼年期ル・アーヴルで暮らす。画家の師匠ウージェーヌ・ブーダン(印象派を直接的に先駆する外光派)に感化されて画家を目指す。
パリで学ぶ
パリに出てアカデミー・スイスに通い、カミーユ・ピサロと出会う。
1860年 アルジェリアで2年兵役をし病気で帰国。
1862年 パリのグレールのアトリエに入り、同門のルノワール、シスレー、バジールらと親しくなる。
1865〜68年 クールベやマネの影響を受けて風景や戸外の人物を描く。
草上の昼食 モネ(1865〜1866)
普仏戦争を避けて1870年ロンドンへ行き、ターナー、カンスタブルに感銘を受け、オランダを経由して帰国。
「印象・日の出」から印象派の時代へ
1872年 『印象・日の出』が第1回印象派展(1874年)に出品され、当時の新しい様式を指して「印象派」の名前の元となった。
印象・日の出 モネ(1872年)
その後10年は、モネなどの印象派の様式として、原色主義、色調分割、視覚混合などの特徴が展開していく。
40代を過ぎてモネの絵画の評価が高まり、経済的に生活のゆとりが出てくる。
ジヴェルニーの桃色の家と庭づくり
1883年 パリ郊外ポワシーに住んでいたが、田舎暮らしを切望しジヴェルニーに引っ越す。桃色の家を見つけて、果樹園だった庭を改造し始める。
ジヴェルニーのモネの家 ヴァーチャル・ツアー
Visite virtuelle Fondation Monet
1888年 家の近くの牧草地で「積み藁」(つみわら)に魅了され連作を描く。
積みわら、夏の終わり モネ(1891年)
自然の対象が時間や季節の推移につれて変化する一瞬の様態をとらえるスタイルが確立していく。
自邸の庭は「花の庭」として立派になり、庭師を雇い入れ、本格的な庭づくりに発展していく。ランや珍しい花のための温室や、池も造る。
1893年 のちの太鼓橋が掛かる睡蓮の庭のモデルとなる土地を購入し、「水の庭」計画を立てる。
大装飾画・連作「睡蓮」に着手
1895年 「水の庭」が完成し、1枚目の「睡蓮」を描く。やがて魅了され睡蓮ばかり描くようになる。
ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池 モネ(1899年)
1909年 睡蓮の連作がパリのギャラリーで発表される。
1910年 大切な水の庭が、冬に大嵐でセーヌ川が氾濫したことで、水没してしまう。水が引くまで2ヶ月を要し、修復には数年かかることになる。
1911年 妻アリスが逝去。水の庭の修復をする。徐々に視力も衰えていき、ショックな出来事で創作から遠のきがちになっていく。
1914年 長男も亡くなり悲しいことが続いたが、「水の庭」の当初の大きな計画が完成したことで、「睡蓮」の大作を本格的に制作するようになる。第1次世界大戦が始まるも、終戦までの4年間、装飾画の大作を創作し続ける。
睡蓮 Water Lilies 国立西洋美術館
フランス国家へ睡蓮の大装飾画を寄贈へ
1918年 第1次世界大戦が終わった翌日、友人である首相ジョルジュ・クレマンソーに作品を国家へ寄付することを伝える。クレマンソーは、モネが表現した絵画から平和への強いメッセージを感じ、展示場所を構想、モネは円形の特別な展示室であることを寄贈の条件とした。
雲
朝
柳のある明るい朝
クレマンソーの像 オランジュリー美術館にて筆者撮影
睡蓮 雲 肉眼で見ると濃く深い青緑のような印象もありました。
1921年 設置場所の決定に難航するが、パリのチュイルリー公園の角にある、元はオレンジの温室であったオランジュリーの建物(19世紀半ば、ナポレオン3世の時代の建築)をクレマンソーが提案し、モネが合意。「大装飾画」の設置場所を現オランジュリー美術館にすることに決定。
展示室の天井は、ガラス天井となっており、白い天幕を通して自然光が入るようモネがこだわり、設計されている。モネの言葉「光がなければ、何も存在しない」
睡蓮の展示室にて。中央でベンチがあり、多くの観光客が写真を撮ったり眺めています。ガラス天井になっているところで光が透けているのがわかります。
展示室のストリートビュー 360度回転して画像が見られます
Musee de l'Orangerie, Paris, France — Google Arts & Culture
1926年 モネ逝去。
1927年 オランジュリー美術館開館、公開される。
今やパリのオランジュリー美術館の大装飾画は、対象の形態を超えて光の変幻を繊細に色彩化した記念碑的なモニュメントとなっている。
睡蓮 朝(一部) 筆者撮影
睡蓮 日没
オランジュリー美術館
横幅2m弱のポスターと、日本語に訳された睡蓮の解説本を買って帰りました。モネだけでなく、オランジュリー美術館ができるまでのことも書かれています。
参考資料
バレエ《ニンフィア》
音楽 ショパン作曲 振付 三科絵理