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ミュシャの運命を変えた出会い 女優サラ・ベルナール

ミュシャは、駆け出しの時代にミュシャの名前を有名にさせてくれた、フランスでの女優との出会いがありました。それが、サラ・ベルナールという女性です。

”サラ・ベルナールは、ロックスターの先駆けともいえる存在で、今日ではマドンナ、レディ・ガガ、リアーナ、ビヨンセを全員一緒にしても羨む程の成功を収めたのだ。” (ピエール=アンドレ・エレーヌ マキシム美術館学芸部長/美術史家*1 )

カリスマ的存在で、舞台女優として人気を博し、芸術家のパトロンとなったり、自主的に海外ツアーを巡業する興行会社を立ち上げて五大陸を回ったという伝説が残っています。今回はサラ・ベルナールとミュシャの縁について取り上げます。一体どんな人物で、ミュシャとはどのような出会いをしていたのでしょうか。有名な人物ですがまだ知らないという方にもご紹介したいと思います。

Sarah Bernhardt, photograph by Napoleon Sarony (1821-1896), 1891.

サラ・ベルナール

サラ・ベルナールは当時の人々がこぞって注目した大スターであり、立ち姿、身のこなしが誰よりも美しかった…というような逸話を聞くほどに、作家・芸術家たちも彼女からのインスピレーションを受けて作品に残したり親交を深めていました。

サラ・ベルナールは1844年ごろにパリに生まれたと考えられています(出生についてはあまり詳しく情報が残っていないそうです)。母はお針子から高級娼婦になった女性で、サラは私生児として生まれ、父親の違う妹たちがいました。母のことが大好きだったそうですが、生活は苦労し、人に預けられたり修道院学校で育ち家族愛に飢えて育ったようです。こうした苦労が彼女の女優への道を切り拓かせたのだという見方も多くあります。

Sarah Bernhardt in 1864; age 20, by photographer Félix Nadar

国立音楽演劇学校に入学し、卒業後は母のパトロンのコネからフランスの国立劇団コメディー=フランセーズに入団、その後周囲とのトラブルで劇団を移りながら、オデオン座での『過ぎ行く人』でヒット作を出し、注目を浴び始めます。

それもつかの間、普仏戦争が始まり中断。オデオン座は負傷者の看護活動をし、社会は戦後の復興を望みました。この時代にヴィクトル・ユゴーの『リュイ・ブラース』のヒロインを務めてフランス中から人気を集めるほどになりました。

Sarah Bernhardt as the Queen in Victor Hugo’s Ruy Blas, 1897.

これをきっかけにコメディー=フランセーズに一時戻りますが、安定は続かず、独立して海外巡業を決意します。フランスを代表する女優として海外メディアでもすでに知られていた存在であったため、たくさんの観客が足を運びました。声がとても美しく演技も素晴らしかったようで、男役もこなし人気を得るほどのカリスマでした。

Sarah Bernhardt in her sculpture studio in Paris, about 1878

サラが独立して興行主として劇場を借り上げて公演を行ったり、アメリカ、イギリス、アイルランド、ヨーロッパ諸都市、エジプト、トルコ、オーストラリア、ロシア、タヒチなど各地を回っていたのが40歳代の頃でした。そして、サラが50歳の年、まだ駆け出し時代のミュシャの才能が見出されます。

サラ・ベルナールがミュシャと出会うまで

50歳のサラはサルドゥ作『ジスモンダ』を上演のためにポスターを依頼したところ、ミュシャがこれを担当することになりました。ミュシャは34歳ぐらいでまだ知名度はそこまでありませんでした。この経緯については、たまたまミュシャが印刷所に務めていたという説をよく聞きますが、コンペであったという説も少なからずあるようです。

いずれにしても、時期はクリスマスの頃で忙しく時間がない状況でした。ミュシャは限られた時間の中でもなんとか仕上げました。サラ・ベルナールはミュシャの仕上げた縦長のポスターを見て、感動で涙をこぼしたそうです。それがこちらのポスターです。

Poster for Gismonda by Alphonse Mucha (1894)

ジスモンダのポスターが大成功

ミュシャはジスモンダの様子を取材してなんとか形に仕上げたそうで、上半分と下半分に分けて創作したのだそうです。上半分はかなりデザイン性の突き詰められた文字と幾何学模様で構成されています。上半分が出来上がると次は下半分に取り掛かったようですが、こちらの方が時間が特に少なく、それでもポスター全体のまとまりを生み出すためにこのようになったんだそうです。そんな逸話を知らなければ、パッと見て短時間で仕上げたとは思えませんでした。

この美しい姿にサラ・ベルナールは感激します。人々もこぞってポスターを欲しがり、掲示が盗まれてしまうほど大人気となると、サラはポスターを販売することを思いつき、かなり売れたようです。その後の劇場ポスターもミュシャに制作を依頼して、のち6年契約が続きました。その間に、《椿姫》《ロレンザッチオ》《サマリアの女》《メディア》《トスカ》《ハムレット》など多数のポスターを手がけることになりました。大スターのサラ・ベルナールが見事に足掻かれたポスターの絵描きということでミュシャの名も知名度を上げて人気を一挙に集めていくようになりました。サラは商業ポスターを活用し売り上げを出したり宣伝に自分が登場することもうまく活用して、自身のブランディングを上手に活用していました。ミュシャもポスターという枠を超えて、衣装などのデザイン画を書いたり、やがて1900年第5回万国博覧会でボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾で銀賞受賞しています。ミュシャはその後チェコに帰国していき、サラは自身の活動をさらに発展させ映画にもチャレンジしたりと二人はそれぞれの道を切り開いていきますが、二人にとってお互いに運命的な出会いであったのでしょう。

ミュシャのデザインしたティアラ

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https://bijutsutecho.com/exhibitions/2646

ミュシャがデザインしたティアラが、百合のティアラです。劇作家エドモン・ロスタン作の《遠国の姫君》の作品によせて、ミュシャがデザインしたこの造形を、同時代のアール・ヌーヴォーを牽引したルネ・ラリックが制作したと見られています。

As Melissande in La Princesse Lointaine by Edmond Rostand (1897)

かなり迫力のある百合の意匠ですね!これは、私が《Lily 〜ミュシャの夢〜》で取り上げようと思っている《ユリ ー 連作《4つの花》にも雰囲気が似ています。

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アルフォンス・ミュシャ、ユリ ー 連作《4つの花》より 引用元

絵画でもジュエリーでも、ミュシャの世界観はうっとりしてしまいます。

ちなみに《遠国の姫君》の上演は、そこまで後世に残るほどの大ヒット作とはならなかったようですが、ユリの冠を身につけた姿は、サラ・ベルナールの象徴的なアイコンとなりました。

サラ・ベルナールとの親交があった芸術家たち

Portrait by Georges Clairin (1876)

ミュシャ以外の画家たちにも多くモデルとして描かれていたサラ・ベルナール。作家のプルーストも同世代人で、『失われた時を求めて』にもサラたちの周囲の交友関係をもとにした部分があるようです。実際に、舞台の女優としてサラ・ベルナールの名前が第1巻から登場します。(プルーストと同時代ということは、マリアノ・フォルチュニとも同時代。ウィーンではクリムトも。ベル・エポックの時代、個人的にドキドキしてしまいます!)

by Théobald Chartran, 1879

サラ・ベルナールの周りの文化人

  • ヴィクトル・ユゴー(舞台の原作)

  • 大デュマ(舞台の原作)

  • 小デュマ((舞台の原作、『椿姫』で有名)

  • オスカー・ワイルド(ロンドンでファンになりフランスまで追っかけ)

  • ジャン・コクトー(聖なる怪物と評する)

  • ロートレック

  • ミュシャ

  • ルネ・ラリック

  • ジュルジュ・フーケ

  • ジョルジュ・クレラン

  • ギュスターヴ・ドレ

  • ルイーズ・アベマ

  • セルゲイ・ディアギレフ(バレエリュスの代表、知人)

  • トーマス・エディソン(発明家、知人)

  • ジョルジュ・クレマンソー(フランス首相)

他多数*2

とても幅広い交友関係を持っていたことが伺えます。また、同時代の文化人たちがこぞってファンになったり絵に描いていたほどに圧倒的な存在感であったのでしょう。恋愛も多かったようです(恋人たちだけで少なくとも14人近く)。

ミュシャの絵には美しい女性たちが多数登場しますが、サラ・ベルナールも多数描いています。ミュシャにとっても自分の才能を見出し世の中で有名になるきっかけを与えてくれた女性で、ここから人気に火がつき後のスラヴ叙事詩のパトロンと出会うことができたり、数奇な運命をたどっていきます。サラとは恋愛関係はなかったようで本当に依頼主との尊敬し合う素敵な関係であったことを想像させます。

もしもジスモンダのポスター依頼がなかったとしたら…今ほどのミュシャの人気はもしかしたら存在しえなかったのかもしれないですね。

blog.coruri.info

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*1: 展覧会「パリ世紀末ベル・エポックに咲いた華 サラ・ベルナールの世界展」の公式図録兼書籍より。文園企画制作事務所、2018年『パリ世紀末ベル・エポックに咲いた華 サラ・ベルナールの世界』オクターブ、p30

*2:展覧会「パリ世紀末ベル・エポックに咲いた華 サラ・ベルナールの世界展」の公式図録兼書籍より。文園企画制作事務所、2018年『パリ世紀末ベル・エポックに咲いた華 サラ・ベルナールの世界』オクターブ、p26-27参考