ヨガは「自分自身について知ること」です。
自分自身とは、いったい何か。 人生の目的とは、何か。 わたしたちは、いったいどこからやってきて、どこへ向かうのか。
そういったことを知ることが、「自分自身を知ること」であるとヨガは導きます。
人は、なぜ幸せを探すのでしょうか。
それは、”自分のことを幸せではない”と、思い込んでいるから、探すのでしょう。
”なにか”が「足りていない」「欠けている」ことを理由にして、不満・不安・恐怖などを感じるからです。
そのなにかとは、物・財産・名誉・権力・人間関係など、いろんなことが挙げられるでしょう。 それが満たされれば、自分も幸せになれるのではないかと思えるから、人はそれを探し求めます。
それは「欲望」ともいえるでしょう。 欲望を果たすために、新しい経験を求めていきます。 そして、経験をすることで、なにかを得るわけですが、その先にはまた新しい欲望が生まれます。 ひとつの欲望がまた次の欲望を生んでいくと、それが尽きることはありません。
ヨガにおいては、欲望にも種類があり、人間にしかできない「知性」を使った欲望こそが純粋で本質的な欲望であり、それをすすめます。
でも、もっと根本的な問いをヨガの古典に投げかけると、もはや 「幸せを探し求める必要はない」のだといいます。
自分自身は、至福という形で存在している。
自分自身という存在は、永遠なる存在であり、至福、幸せという形で存在しているからだ、といいます。
”自分自身は幸せそのもの・・・??”
あなたは「自分自身は、幸せそのものである」といわれて、すぐにそう思えるでしょうか。 そう思えるという方は、ラッキーなことに幸せに気づくことができます。
でも、なかなかそう思える人はいないのでしょう。 そのために、ヨガがあるのです。
ヨガの先人たちによれば、わたしたちは、目に見える世界ばかりを見て知ったつもりになっているといいます。
たとえば、自分の体についても、わたしたちは目に見える肉体だけをみて、自分のことを知ったつもりになってしまう。
でも、この肉体はどこからやってきたのか。 心はどこにあって、死後はどうなるのか。 魂はあるのか。 そういったことを深く知ることなく生きているから、あるとき「自分自身とは何だろう」と彷徨ってしまうのだといいます。
"目に見えない世界への理解が、目に見える世界に変わっていく。"
これは、ある先生が言っていた言葉ですが、はじめて聞いたときよりも、ずっと身近に考えられるようになりました。
ヨガは、受け入れることを学びます。
これはわたしの個人的な認識ですが、物事を受け入れる姿勢には、大きく二つあると思います。
一つは、白か黒か、二元的にはっきりさせる姿勢です。 あるのか、ないのか。YES か、NO か。正しいのか、間違っているのか。 多少のゆらぎや荒さがあっても、白か、黒かのどちらかに収束していきます。
もう一つは、白と黒のあいだに「グレー」のグラデーションを受け入れる姿勢です。 グレーを受け入れることは、たやすいことではないかもしれません。 想像の範囲を超えていたり、過去の経験では触れたことのない初めて出合うことであったりするからです。 白と黒のどちらかに決めてしまいたくなる気持ちを、ぐっと堪えないといけないこともあります。
この二つの姿勢は、世界のあらゆる局面において、その状況に応じた形であらわれます。
そこで気をつけたいのは、時間を急ぐあまりに、本質が見えていないまま、白か黒かをすぐに判断してしまうことです。 人生には、時間が経たないとわからないこともあるでしょう。 そして、白か黒かをはっきりさせることが、必ずしも正解ではない場合もあるでしょう。
ヨガは、受け入れること。 白も、黒も、ときにはグレーも受け入れる必要があるかもしれません。 そんな姿勢を自分に許してみることで、 物事に対するとらえ方や、心の持ち方や、さまざまなものへの理解が、もっともっと大きくなっていくかもしれません。
さいごに・・・ヨガは宗教ではありません。
答えは自分の中にあるからです。
強制されたり鵜呑みにすることではないからです。
哲学は自分の内で深く考えを重ねていくこと。それこそが自分自身を知るための道になっていきます。