ボリショイバレエの映画館ライブビューイングで全幕「パリの炎」(第2幕構成)を鑑賞しました。
パリの炎は、パドドゥやヴァリエーションが単独でよく踊られるものの、全幕上演は日本でとびきり少なく、来日公演も稀有な作品です。
公式サイトより概要 https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b1896684
フランス革命時代、ジェロームとジャンヌ兄妹は首都を陥落させる勢いで進軍する義勇軍を支持しパリを目指しマルセーユを離れる。自由の旗を求めて戦いながらも兄妹それぞれの愛に出会う。
アレクセイ・ラトマンスキーはワシリー・ワイノーネンの「パリの炎」再演でボリショイが誇る溢れるようなエネルギーと燃えあがるような情熱を最高にしかも正確に描写することに成功した。圧倒的な妙技と驚くほど美しいパ・ド・ドゥ。ボリショイはモスクワの舞台が狭く感じるような、桁はずれのダイナミックな演技を見せてくれる。
あまり知らない人にとってはぴんとこないかもしれないので、所感をメモしながらシェアしますね。
- パリの炎
- 民衆と宮殿のコントラスト
- ルイ16世&マリーアントワネットたち
- 人間味あるストーリー展開に共感しつつも、結末は衝撃
- 有名なパドドゥの場面
- 演技よりも踊りそのものでストーリーが語られていくスタイル
- 型にとらわれない自由でスピーディーな踊り
パリの炎
パリの炎は、フランス革命を取り巻く民衆と王侯貴族たちの動乱を、人間味あふれるドラマに仕立てたバレエです。フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」の合唱や、ルイ16世、マリーアントワネットも登場するので、まるで歴史から飛び出してきたかのよう。
ボリショイでは、第二次世界大戦以降1933年〜1960年代半ばまで上演され、人気を博したそうです。ワイノーネンの振付でした。
その後、芸術監督が変わったりバレエ団の状況も変化していくなか、しばらく上演されず眠っていました。ラトマンスキーが復刻させたのが今回の作品。
もとの脚本をブラッシュアップさせ、ラトマンスキー版ではより人物像と男女愛も描きながら、愛と憎しみ、怒りと哀しみを表しています。
メインの登場人物はこんな感じ。
ジャンヌ(民衆を率いるメンバーの女性、ジェロームの妹)
ジェローム(ジャンヌの兄。貴族のアデリーヌに命を救われ恋に落ちる)
フィリップ(勇ましい革命家で、ジャンヌと恋に落ちる)
ボールガール侯爵(王侯貴族たちの一人で女性に手を出したがるのが厄介なキャラ。アデリーヌの父)
アデリーヌ(ボールガール侯爵の娘。父に捕らえられたジェロームをこっそり逃して二人は恋人同士となる)
老女・乳母 ジャルカッス(アデリーヌの面倒見役)
パッと見、ジャンヌとジェロームとフィリップという革命家&民衆のリーダーの物語なのかと思いますが… クライマックスになるほど、アデリーヌの境遇が物語の焦点になっていきます。
民衆と宮殿のコントラスト
この作品を観ていて感じるのは、人々の対立のコントラストです。
フランス革命で戦う民衆はとても潔い。もしかすると自分の命が危ない場面だってあるかもしれない危険を顧みずに、民衆一人ひとりの幸せを勝ちとろうと舞い踊ります。革命を勝ち取った先に訪れるであろう希望に満ち満ちて、みな晴れやかです。
血気盛んなリーダー的存在なのが、主人公の革命家フィリップと、ジェローム(兄)と、ジャンヌ(妹)です。軽快で迷いも屈託もなく意志を貫き通す性格が、三人に共通しています。特に華奢で可愛らしいジャンヌは小さな体から放たれるとは思えないほどのエネルギーを放っていました。
ルイ16世&マリーアントワネットたち
一方で、宮殿で舞踏会を開いている王侯貴族たちは、民衆たちの荒々しさとは正反対。ルイ16世とマリーアントワネットといえば想像がつくかと思いますが、コルセット付きのドレスに、背の高い髪飾り、男性はキュロットにかつらの出で立ちで、同時代の国の人々同士の対比がはっきりと表れます。
ここでの舞踏会はディベルティスマンのような、現実を忘れさせる美しい男女の舞となります。斬新な衣装に荘厳な振付、ドン・キホーテのキューピッドを思わせるキャラクターもいたりと、いくつものバレエ作品を観ているかのような楽しさがありました。
ルイ16世の存在感は、くっきりと感じられましたが、実は出番が3分だけだったのだそう。そう思えないほどの存在感を放っていた理由は、周りの従属する貴族たちによる人間関係の構図がすぐにわかるので、登場の瞬間から、王だなとわかります。物語に引き込ませるには、こういった要素はものすごく大事です。
あとは、舞踏会嫌いだったルイ16世のキャラクターをほどよくコミカルに演じていたことが観客の心をつかみます。周りの貴族たちが秀逸な踊りを見せる中で、王はみなが見守る中、6番ポジション(パラレル)でのジャンプ。これが意味することは、子供っぽい、あるいはテクニックがないことを示すようなもの。バレエの中でもかなりハイコンテクストな一瞬でしたが、それがあるのとないのとでは全然違います。フランス革命という重々しい題材だからこそ、約2時間の作品のほんの一瞬ウィットに富む示唆が歴史物を扱うゆえの奥行きを感じました。
人間味あるストーリー展開に共感しつつも、結末は衝撃
政府に対する民衆の憤りは、バスクダンスに表れていきます。ダイナミックに団結していく踊りが、自由を勝ち取りたい強い意志を表します。
まるで観客も革命に参加しているような気持ちになるように舞台をつくっていると言っていました。
そんな動乱のなかでも、人々の生活があり、男女の恋もあり、というヒューマンタッチなラブストーリーが込められているからこそ、より共感を呼ぶのだと思いました。
なぜ衝撃な結末なのか… ここで書いてしまうと完全にネタバレなんですが、わかりにくいあらすじかと思いますのでメモしておきます。アデリーヌと父ボールガール侯爵はマルセイユにいました。そこへ、ジェロームとジャンヌの兄妹が通りかかったのです。女性にはすぐを手をだしたくなる侯爵はジャンヌをとらえようとします。そこへ、兄のジェロームが妹ジャンヌを助けると、気にくわない侯爵はジェロームを逮捕してしまいます。気の毒に思った娘アデリーヌは、ジェロームを牢屋から逃してやり、ジェロームは美しいアデリーヌに心奪われながらも民衆のもとへ戻っていきました。ジェロームは別に悪いことをしていなかったわけです。アデリーヌが脱走させたことに侯爵は怒ります。
その後アデリーヌは父のもとから逃げ出しジェロームと落ち合います。テュイルリー宮殿襲撃が勃発し、ますます王侯貴族たちは吊るし上げられていくことに。アデリーヌは身元を明かしていませんでしたが罪悪感があったのか、浮かない顔。ジェロームはなだめながらもやさしく介抱してかくまっていました。
新しい政府が立ち、革命派は新共和国を勝ち取ります。広場には、王侯貴族たちを葬る処刑台があらわれます。民衆たちは意気揚々と革命の成功と自由の喜びに包まれるなか、アデリーヌは、変わり果てて歩くうつろな父の姿をみつけます。ジェロームは、危ない!と言わんばかりにアデリーヌを押さえますが、気が狂ってしまったアデリーヌは乳母にも見つかり身元を明かされてしまい、処刑台の前に連れ出されます。その後はなんともあっけないものでした… 悲しみと絶望のジェローム。愛する女性を失った哀しみが客席をヒンヤリとさせるなか、音楽は素っ気ないほどに明るい軽快なメロディなのです。貧困と増税に苦しんでいた民衆は、生活が安定し職もできることを確信して祝福しているのです。ジェロームも、そうであったはずなのです。アデリーヌという愛する女性に出会わなかったならば…。
作品全体にコントラストがきいていましたが、この結末のコントラストでしめるとは劇作家の手腕が素晴らしいと思いました。
有名なパドドゥの場面
よく単独で踊られるパドドゥは、赤・白・青のフランス国旗カラーをしたリボンをさげて、ジャンヌとフィリップが結婚し新共和国で初めての婚姻が認められたという祝福の場面。(この次から悲劇が始まっていきます)広場に集まる民衆は、革命の喜びと、リーダー的存在の二人の新しい人生の門出を祝います。フランス革命の背景を知れば、ただめでたいという軽薄なものではなく、むしろ命を賭けてでも勝ち取ったフランスの民衆の強い意志。ていねいに、綺麗に踊ることはもちろん欠かせないですが、あまりに綺麗にこじんまり踊ってしまうと、全幕のストーリーに対して負けてしまいます。海賊のように、奪い取るくらいの迫力がないと見合わないものだと再認識しました。ジャンヌのヴァリエーションは、フィリップに比べればいかにも女性らく軽快な可愛らしい踊りです。それもよく考えてみれば、革命推進派のリーダーにはこんなにしなやかな女性がいたのだと(ジャンヌ・ダルクを想像してみてください!)。こんなに女性らしいしなやかな芯がある女性が率いていたんだなぁとも感じてくるのです。
演技よりも踊りそのものでストーリーが語られていくスタイル
私がロシアバレエを観ていてよく感じるのは、物語がわかりやすいのに、演技は意外と少ないということです。よくロシアバレエと比較するときに例えば英国系は演劇の国ともあって、演劇性の高いスタイルと呼ばれることがあります。たとえば、チャイコフスキーの三代バレエなどを観ていますと、同じ場面展開であっても、ストーリーのつむぎ方の手法が違うことを感じます。踊り以外に、演技をいれる時間がロシアバレエのほうが少ない傾向にあり、ずっと入れ替わりで沢山のダンサーが踊っていくのですが、踊り自体で物語の展開がわかります。ある意味、振付家にとっては、演技に頼らないでダンスの構成を通して伝えられるように工夫しているのだろうなと個人的に察します。
型にとらわれない自由でスピーディーな踊り
振付はとても伸びやかで、クラシックのテクニックがなければ実現できない洗練さがありつつも、従来の型にとらわれないような驚きや発見を誘うような自由さがありました。
ある程度バレエがわかる方は、このテクニックがきたら次はこういう動きが来そうだ…と予測できると思うんですが、それを良い意味で裏切られます。(クリストファー・ウィールドン振付の英国ロイヤルの「不思議の国のアリス」にもものすごく似た感覚を覚えます。)
パドドゥもコンテンポラリーのような自由さがありますし、ヴァリエーションも予測できない感覚を誘いつつ、全体はスピーディーに進んでいくので、超絶技巧もさりげなくポンポン出てきます。
スペクタクル、という言葉が相応しいかは迷うところですが、踊りの面だけを観たとしてもボリショイのクオリティは半端ではありません。
こういう新作を観ていて思うのは、情報量が多いな、という印象です。
今の時代は、みんながインターネットやメディアを使いこなし膨大の情報量を受け流せるからこそ、舞台上でも情報量が多いことに慣れていて、むしろその方がたくさんの人の興味を集めやすい(飽きさせない)のかなぁとも思います。
人間がもともと持っている知覚能力は遺伝子的にさほど変わっていないのだと思いますが、時代と社会の影響を感じます。まあ、そういう時代だからこそのミニマリズムな表現もありかもしれませんが、沢山の層に飽きさせないためにはそんな気もしてきます。
シネマは一日だけの上演ですが、みなさんもまた機会があればぜひ。