バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

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アンナ・パヴロヴァ大正11年の来日公演と、芥川龍之介の感想

アンナ・パヴロヴァが来日公演をした1922年、日本ではバレエがまだよく知られていない大正時代でした。

おそらくバレエというものを美しいと感じていたようですが、作品ごとの解釈や見方が判りきれなかったところもあったようです。

日本には劇場で拍手をする文化がまだなかったため、終演後の観客の反応がわかりにくかったそうです。静かに幕が閉じてしまい、びっくりしたのでしょうね。翌日新聞で良い批評が出たのでほっとしたそうです。

アンナ・パヴロヴァの日本公演をしたときの手記より、このように書かれています。

日本人は、私のバレエをとてもよく理解してくれましたし、たくさん質問しましたね。それも、非常に素朴な質問が多かったように思います。プログラムには、筋書きが日本語で書かれていましたので、ストーリーのあるバレエ、例えば「秋の葉」とか「アマリラ」や「妖精の人形」は、大変喜ばれたようです。けれど、ショパンの曲に合わせて踊るだけのストーリーなしのクラシック・バレエ「ショピニアーナ」などはよく分かってもらえないようでした。ショピニアーナのようなバレエでは、”ストーリーは何か”と観客は意味を探すようでしたし、さまざまなムーブメントとか、薄地の衣装まで何か意味を持っているのではないかと思われたみたいでした。
アンナ・パヴロヴァ―白鳥よ、永遠に P104

ストーリーがある作品は共感しやすく、でもショピニアーナのような物語がないお話しは深掘りしすぎてしまうのか感じ取り方に戸惑いがあったのかもしれません。

芥川龍之介も帝国劇場での公演をみていて、各作品ごとの感想を述べています。

”「アマイリラ」には辟易した。”

”「アマイリラ」の次は「ショピニアアナ」である。これにも僕は冷淡だった。しかし幸ひにこの舞踊は題名の通り芝居ではない。”

”しかし「瀕死の白鳥」等七種の舞踊が始まつた時、僕は忽ち快活になつた。芸術はいつか舞台の上から、たとへば霧の中のつきのやうにかすかな光を放ちだしたのである。”

”「瀕死の白鳥」は美しい。少くとも「瀕死の白鳥」と云ふ日本訳の名よりも美しい。一体アンナ・パヴロワの舞踊は光明とか何とか思ふまえに、骨無しの感じを与へるものである。”

”僕はロシア舞踊の中に得体の知れない何物かを感じた。”

このような記録が1922年(大正11)9月に残されています。

この時代はまだ西洋式の劇場が少なく、帝国劇場にのみ座席の椅子があり、そのほかの劇場は床に座っていたそうです。藁の敷物の上に座っていた、とびっくりしていたようです。

アンナ・パヴロワやメンバーたちにとっても、相当な異文化交流になっていたのだろうと思われます。