バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

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若き日のプティパが出会ったヨーロッパの皇帝皇后陛下とのエピソード。〜民族を超えて芸術が人の心を通わせる〜

マリウス・プティパは、現在のクラシックバレエの名作を数々振り付けて成功へと導いた伝説の振付家です。眠れる森の美女、ラ・バヤデール、白鳥の湖などで有名です。(白鳥の湖は初演は違う振付家であったのを蘇演して好評を博しました。)プティパは「マリウス・プティパ伝」という伝記を自ら書き残しており、ロシア皇帝や海外の要人との興味深いエピソードが多々あります。

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Marius Petipa

プティパは、生涯長くロシア帝室劇場の首席メートル・ド・バレエとして務めました。1818年にフランスのマルセイユで生まれ、1910年に92歳で亡くなっています。彼の振付師としての長いキャリアは、19世紀のヨーロッパとロシアの激動の世紀と同時代でもあり、その意味でもなかなか興味深いことです。歴代の皇帝との交流の逸話も残されており、一般的な世界史のエピソードでは触れられない面白さがあります。

今回は、プティパが若い頃に海外巡業したときにパリで公演を行った際、ナポレオン3世がウージェニー皇后と一緒に鑑賞していたというエピソードを紹介します。

1854年(おそらく36歳の頃)プティパはロシアで活躍しながら、バレリーナのマリア・スロフシチコワと結婚します。

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プティパと結婚したマリア・スロフシチコワ

プティパ伝では

たいへん優雅なバレリーナで、ヴィーナスにたとえられたりする女性だった。

とプティパ自身が妻のことを表しています。彼女のためのバレエ作品を振付演出することも多かったようです。実は後年二人は離婚して悲しい結末が待っているのですが、もともとは互いに惹かれあっていたのでしょうね。

そして当時の劇場支配人ゲオデノフが休暇を認め、夫婦で海外へ巡業しに出かけます。ロシア領内のリガ、ベルリンと出かけ、各地で大成功。ベルリンでは、当時プロイセンのフレデリック・ヴィルヘルム4世(在位1840年〜1861年)が観に来られ、直々に楽屋まで訪ねたり、ダイヤのついた黄金の嗅ぎたばこ入れと宝石のみごとなブレスレットをプティパ夫妻にプレゼントしたそうです。

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Friedrich Wilhelm IV フレデリック・ヴィルヘルム4世(弟は初代ドイツ皇帝となったヴィルヘルム1世)

なんという太っ腹の国王なのでしょうか…。国王のお召し物を見るとそういった贈り物も普通なのかもしれませんが。

その後、プティパはパリへ移動します。プティパはフランス出身ではありましたが、海外の劇場ですんなりと公演を打たせてもらうには様々な交渉や根回しを踏んでいたようです。宮廷大臣のモルニー公爵を訪問して相談し、公爵夫人がロシア人であったことから受け入れられやすく、なんと皇帝ナポレオン3世にも招き入れるよう手配してくれたのです。

『罪なき者の市場』という作品を上演し、ナポレオン3世皇帝、ウージェニー皇后、モルニー公爵夫妻のほか、宮廷の人々が多数パリ・オペラ座に足を運び、大成功となりました。

ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン)もよく世界史で登場する人物で、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の甥です。

f:id:coruri:20190815234240j:plain プティパの公演を観に来たというナポレオン3世(ルイ=ナポレオン)

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ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト、ルイ=ナポレオンの伯父)

バレエの歴史をそれだけ抜き取って考えてみると時代背景が想像しがたいものですが、このように考察してみると、バレエという文化がそれぐらいの時代から存在しているのだという実感が湧いてくるものです。

ちなみに、ナポレオン3世は残念ながら八方美人的な政策のため徐々に失脚してしまい、ついに普仏戦争でプロイセン軍に捕らえられて退位してしまいます。でも「あのナポレオン1世の甥だ」と支持が当初大きく、国民投票で皇帝に選ばれた人物です。

もうひとつ、現代の私たちにも記憶に残りやすいのが、美しいウージェニー皇后の存在も関係しているのではないでしょうか。

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ウージェニー皇后 1854年だそうでプティパが訪れた時期とほぼ同じ頃と思われます

以前、日本の三菱一号館美術館で開催された「ショーメ展」にこちらの絵画とウージェニー皇后が実際に胸元につけているショーメ製の緑色のクローバーのブローチの実物を観ることができました。

絵画と実物のブローチを見比べて、ウージェニー皇后という女性が本当に実在したのだということをあらためて感じられた瞬間でした。年月の経過を感じさせないほど、保存状態も素晴らしく、まばゆい緑の輝きが予想以上に鮮やかでした。

婚約の贈り物として肌身離さず大切にしていたということは、この公演を鑑賞した日も身につけていたのでしょうか…。

話は戻り、劇場は歴史的に国の財産としての見方が色濃かった時代が長く、政治のプロパガンダにも利用されました。

芸術家たちは偉い人たちの承認がなければ公演をすることができない…といったら大げさかもしれませんが、やはり上演許可を取り付けるというのが大きなハードルでした。しかも海外巡業で行うのですから、プティパはうまく重要人物に交渉して、自身のキャリアアップを戦略的に進めていました。

こうした光景を見ますと、とてもきらびやかな劇場の世界が広がっていたように想像してしまいますが、一方で、19世紀前半当時のヨーロッパやロシアは互いに戦争を繰り返したり、各地で反抗運動が発生した激動の時代です。

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1858年1月14日のナポレオン3世の暗殺未遂事件を描いた絵

ナポレオン3世もこうした危ない目にあってしまうほどです。ウィーン体制下の各国の民衆の生活は決して今ほど平和とは言えないでしょう(生きていないので想像するしかありませんが)。

ただ、そんな時代にもバレエの黎明期として年々発展があり、フランスやロシアなどのバレエの芸術家が各地に行き来していたこと、国の違いを超えて芸術の価値は少なくともある程度の賞賛を得ていた(上演で大成功といえるくらいまでの人気を博すことができていたこと)というのは、芸術の価値を再認識させられることではないでしょうか。プティパが海外巡業をし始めたのが1854年以降だとすると、その時代にロシアはクリミア戦争(1853〜1856)を起こし、オスマン帝国、英国、フランス、サルデーニャを相手取っている時代です。

ある意味敵国からやってきた芸術家を迎え入れるというのは考えようによっては警戒されてしまうこともありえそうな中で、このように文化交流が存在していたということになります。

このクリミア戦争はかなり過酷な戦場を引き起こし、ナイチンゲールが従軍看護師として注目を浴びた戦争です。

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1854年ごろのナイチンゲール

こうした動乱の時代を幾たび乗り越えながらもクラシックバレエは400年近く人々に愛され夢と希望をもたらした文化なのです。私は、こういうことが一番胸が熱く感動します。

人類がみな普遍的に「美しいな」「いいな」と思えて、国の利害や対立も超えて友好的に向き合うことができる。これは芸術だからこその価値だと私は考えます。芸術は、武器を捨てて、国境も民族も文化の差異も超えて、平和なつながりを広げる大事な役割を担っていると思います。

プティパの若き日々から始まり、いろいろと脱線してしまいましたが、バレエの歴史と世界史の視野を織り交ぜながら、私なりの視点をご紹介しました。こうしたテーマも楽しんでいただけたら幸いです。