バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

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劇場の歴史 ロシアの農奴劇場が民衆の心をつかんだ

農奴女優プラスコヴィア・ジェムチュゴワ
https://jp.sputniknews.com/amp/russia/201712034340992/

バレエはイタリア宮廷舞踊から起こり、フランスで王侯貴族たちの趣味娯楽として発展し、ロシアで黄金時代を迎えたという話をご紹介してきました。

当時のロシア帝国ではヨーロッパ圏の仲間入りをしようと西欧化政策をとられていた時代が長く、バレエを嗜むこともその一つで取り入れられました。バレエというものが確立するのと並行して、民衆のうちにも劇場での出し物のような演劇という文化がありきで成長していきます。

ロシアで民衆たちの劇場文化が発展するまでの背景に農奴劇場がありました。

農奴とは、土地を持つ貴族が経営する農地で労働させられた人々で、ロシアでは特にある種の人権的な自由がないような奴隷状態もありました。

冒頭の女性は、農奴劇場で人気を博していた女優プラスコヴィア・ジェムチュゴワです。シェレメチェフ伯の経営していた農奴劇場で活躍し、ソプラノの歌声が美しかったそうです。彼女はのちにシェレメチェフ伯と結婚し、持って生まれた才能を活かすことができた幸運な農奴の方です。

バレエの歴史というとつい王侯貴族たちにフォーカスされがちですが、実際のところ貴族よりも民衆のほうが圧倒的に多いわけですし、ロシアでも貴族でかつ土地を保有し農地経営できていた人は1%にも満たないようです。

日本人にとって、農奴とは聞き慣れないものです。封建領主制をとる国で存在した形でしたが、もっと契約関係でさっぱりしていた構造もあれば、ロシアのように農奴の自由が極端に制限されていたこともありました。

近代化し農業国から工業国に発展したり、経済発展することで農奴制から脱却していく流れでしたが、西欧よりもロシアは長く続きました。

したがって農奴とは、農民とイコールではありません。貴族領主の権力が強かったので、貧しい生活をしていた人々が国民の大きな割合を占めていました。

「1861年2月19日の読書」グリゴリー・ミャソエードフ
ロシアの農奴制 - Wikipedia

世界史で「農奴解放令」という言葉を聞いたことがある方もいると思います。それが歴史の大きな出来事でした。上の画像は農奴解放令のお達しを読む農奴たちの姿。切実でほの暗い時代感が絵の中に漂います。とはいえ、すぐに民衆の暮らしが明るくなったか?というとそうは言えないようです。そうはいっても、農奴制を廃止するということはロシア帝国の皇帝(ツァーリ)たちにとって、貴族領主の反感を避けることができない大きな決断であったのです。

さて話を農奴劇場に戻します。

そんな農奴制のもと、なぜ農奴劇場が成立したのか。

裕福な領主が台頭し、まだ娯楽の少ない時代に劇場の見世物は人々にとって人気でした。

農奴劇場の設立を許可されると、ロシア各地で設けられていきます。

領主たちにとっては、土地での農地経営だけでなく、実業のひとつとして劇場経営をすることにより、現金収入を得やすかったのです。

のちに国家が樹立する帝国劇場ができる時期には農奴劇場は衰退してしまいほとんど消滅してしまいますが、その昔人々の心をつかんだ農奴劇場があったというのは文化の懐を感じます。

肝心な俳優や女優たちを用意しなければならないため、中には農奴をパフォーマーに育てて経営していたようです。

中世の頃はまだ移動の自由があったものの、ロシア帝国の時代には君主の方針によって権力構造が厳しくなったり、移動や結婚やら様々なことが領主の権限で支配されており、社会問題として逃亡農民が増加して反乱も度々起きていました。

でも中には女優や俳優の農奴を自由にさせた領主もいたそうです。

現代のような社会インフラが成立していないようなそんな時代でも、やはり人々の心をつかんで、熱狂を起こしていたということが私にとっては感銘を受けます。それと同時に、現代の自由な生活のもとでバレエに励むことができるということもありがたいことなのだと実感させられるのです。