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バレエ・リュスの歴史(ディアギレフ時代1909〜1929年)

バレエ・リュスとは、20世紀初頭にパリを中心に活躍した、セルゲイ・ディアギレフの率いるロシア・バレエ団のことです。

バレエ・リュスという名前はロシア・バレエ団をフランス風に呼んでいるもの。バレエの歴史にふれると、バレエ・リュスで登場していた振付家・ダンサー・代表的なバレエ作品の名前を聞くことがあるでしょう。

時代のセンセーショナルを引き起こしたカリスマ的なバレエ団だったにもかかわらず、約20年間という短さで解体に至り、その後の影響力は世界のバレエに伝播しています。

今となってはビデオなどがないため資料が少なく幻の存在である「バレエ・リュス」の歴史をまとめてみてみましょう。

Poster by Jean Cocteau for the 1911 Ballet Russe season showing Nijinsky in costume for Le Spectre de la rose, Paris

バレエ・リュスの歴史

バレエ団の歴史は、多くの人物の関わりが混じっており、少しわかりにくいところがあります。

主に、ディアギレフが旗揚げして、1929年に亡くなるまでの期間になりますが、ディアギレフや主要な人物が交流したり制作した出来事もふくめてバレエ・リュス関連の歴史像になります。

ここでは時系列に箇条書きで書いておきます。

  • 1909年 ディアギレフがバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)旗揚げ。パリのシャトレ劇場で初回公演を行う。アンナ・パヴロワがバレエ・リュスに合流。チェケッティ(バレエ教師)も参加、その後のバレエ団の技術向上に貢献する。ディアギレフがニジンスキーと出会い生活を共にし始める。ロシアのマリインスキー劇場のダンサーたちはシーズン再開のためロシアに帰国する。来年の夏公演に向けて準備を進める。ストラヴィンスキーに「火の鳥」作曲を依頼する。

  • 1910年 パリ・オペラ座に出演し始める。ニジンスキーは妹ニジンスカと「牧神の午後」振付に取り組む。ココ・シャネルがパリに帽子店をオープン。「シェヘラザード」「火の鳥」初演。

  • 1911年 ロシア帝室に借用していた形式から、正式にディアギレフ自身のバレエ団に体制を整える。(1909年にロシアの支援者ウラジミール・アレクサンドロヴィチ大公が亡くなっており、帝室からの支援が途絶えていた。)「薔薇の精」初演。ニジンスキーはマリインスキーに所属していたが、ジゼルの衣装問題があり退団することになり、バレエ・リュス専属になる。

  • 1912年 ペテルブルク人民会館が焼失、バレエ・リュスのロシア公演中止。「牧神の午後」初演。振付家ミハイル・フォーキンが腹を立て「ダフニスとクロエ」での扱われ方を最後に抜ける。

  • 1913年 ニジンスキー「遊戯」あまり成功せず。「春の祭典」初演。ニジンスキーがロモラと南アメリカツアー中の船上で婚約、ブエノスアイレスで結婚し、ディアギレフから解雇通知が届く。振付家兼任ダンサーのミハイル・フォーキンが復帰する。アンナ・パヴロワは自身のバレエ団を作る。

  • 1914年 ボリショイ劇場の若手レオニード・マシーンがディアギレフにスカウトされ入団。(のちに振付家としても活躍)ニジンスキーは独自のバレエ団をやるもハプニングと体調悪化で失敗。第一次世界大戦勃発によりブタペストで人質になる(1916年まで)。ミハイル・フォーキンはペテルブルクへ戻る。

  • 1915年 プロコフィエフに作曲「道化師」を依頼。翌年のアメリカツアーへの計画が決まる。パリのチャリティ・ガラを開催。

  • 1916年 アメリカ公演にニジンスキーが参加し、人質から解放される。ニューヨークで合流。ディアギレフはピカソと出会う。

  • 1917年 ディアギレフ、マシーン、ファリャがスペイン旅行。(のちに三角帽子の創作へ)ニジンスキー「レ・シルフィード」”最後の正気”での舞台となる(その後は体調不良で引退状態)。団は冬はモンテカルロを拠点にする。

  • 1918年 スペイン滞在中、ロシア革命とブリスト・リトフスク条約によってロシア人(ディアギレフもふくめて)はスペイン外に出られず、国籍を失い混乱。バレエ・リュス継続を決心。団員は約二十人が辞める。バレエ・リュスのメンバーであったオリガ・ホフロワはピカソと結婚。ニジンスキーは日記を書き始める。

  • 1919年 ニジンスキーは「戦争」(ショパン作曲)を踊る。やがてサナトリムの療養生活に入り、発狂に陥る。ミュージック・ホールでの上演で経済を食いつなぐ。ミハイル・フォーキンはアメリカへ。

  • 1920年 イダ・ルビンシュタインがシェヘラザードで人気を再燃。「春の祭典」に取り組んでいた頃のストラヴィンスキーとココ・シャネルが知り合う。

  • 1921年 レオニード・マシーン解雇(女性問題でトラブル)。ロシアの亡命貴族ボリス・コフノがディアギレフの秘書となる(その後も右腕として活躍)。芸術監督にラリオノフを迎える。ニジンスカ復帰。12月に眠れる森の美女をひかえるも豪華絢爛な舞台によって大きな財政危機に瀕する。

  • 1922年 バレエ・リュスの主要パトロンであるモナコ公アルベールが亡くなり、モナコからの支援が途絶える。

  • 1923年 セルジュ・リファール(ニジンスカの弟子)らが5人入団。アントン・ドーリンも入団、ディアギレフの寵愛を受けるようになる。

  • 1924年 ディアギレフがジャンコクトーに「青列車」制作を依頼。リファールがディアギレフの寵愛を受けるようになる。「第二のニジンスキーにする」と約束。ジョージ・バランシン参加。ドーリンが怪我をして、リファールが一番手に。

  • 1925年 アントン・ドーリン退団。ディアギレフがシュルレアリスムのとりこになり、ミロの絵画を購入(翌年の舞台で使用)。

  • 1926年 ニジンスカ退団。

  • 1927年 ディアギレフが古書収集にのめりむ。アメリカ公演の交渉するも進まず。

  • 1928年 一座の継続と古書収集のためにピカソ同意のもと「三角帽子」前幕「クァドロ・フラメンコ」を売却。財政難に陥る。ディアギレフは古書と絵画コレクションのためパリにアパルトマンを借りる。バレエ教師チェケッティが亡くなる。

  • 1929年 「放蕩息子」初演。ディアギレフが糖尿病と診断されるも療養せず、2ヶ月で亡くなる。”バレエも死んだ” バレエ・リュスは事実上の解体となる。

参考文献 ディアギレフのバレエ・リュス展 : 舞台美術の革命とパリの前衛芸術家たち : 1909-1929 など

このわずか20年の時代の中にも、バレエ史においては、主要な出来事や主要な人物の影響がいくつもあります。

また別途掘り下げる記事も書いていきますが、大まかな時系列の流れとして上記をご参考にしてみていただければと思います。

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