バレエ ・リュスのバレエ ダンサーのニジンスキーは彫刻家オーギュスト・ロダンと特別な友情を持っていました。
ニジンスキーが振付した「春の祭典」初演時の出来事が、2人に絆をもたらしました。
ロダン 考える人(wikipedia より)
ニジンスキーってどんな人?と思ったらこちらへ
ニジンスキーの生涯についてクラブハウスで話しました! - バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ
ニジンスキーの「春の祭典」の初演
Dancers in Nicholas Roerich's original costumes. From left, Julitska, Marie Rambert, Jejerska, Boni, Boniecka, Faithful https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rite_of_Spring
映画「ニジンスキー」では、ニジンスキーが振付を行った「春の祭典」初演当時に、観客の賛否両論で大騒ぎになった夜のことを歴史的史実として紹介しています。
「春の祭典」はストラヴィンスキーの音楽で有名ですが、パリでの初演当時1913年はバレエとしては革新的すぎて、大混乱であったといいます。
大喝采する人たちもいれば、大反対する人たちもいたのです。
それはなぜかというと、古典のクラシックバレエの型から大きく外れたモダンなスタイルだったからです。
題材は古代の人々と太陽神、そして生贄の乙女などが出てくる民俗的な世界なのですが、テーマも振付も衝撃的でした。
動きは、バレエの基本系であるアンドゥオールやポールドブラなどの概念から大きく逸脱して、独自のスタイルで表現しました。
復刻されている「春の祭典」を見るとみなさんも感じることと思いますが、私は古代エジプト絵画のようなポージングを想起させられます。そして、ある意味原始的な世界といっていいような文化的生活以前の人類の歴史を非常にわかりやすく表現していることもあり、様式美に隠された人類の心の…特に痛ましい感情まで伝わってきます。古代世界を否定したいのではなくて、あまりの描写にはっとさせられるのです。
神のような大きな存在に対する、人類の畏れの気持ちが、バレエでこんなにも伝わってくるのかと思います。(子供の頃は全編見たことがありませんでしたが、怖い!という印象でした)
そしてバレエのポジションではなくパラレルのポジション(並行、あるいは内股)の脚のスタイル、突破的な動き、衝動的に飛び跳ねるなどの振付は、エレガントとは反対の印象を持ちます。
それらを見た観客は、まだモダンなバレエ作品が現代よりもずっと少なかったために驚き、新しい芸術の形を受け入れる人と受け入れられない人に分かれてしまったのです。
バレエ・リュスのプロデューサー、ディアギレフは、あまりの衝撃的な観客の反応に、もう一度作品を上演させました。
それでも観客の反応は分かれました。
フィガロ紙は酷評
フィガロ紙は「春の祭典」の初演について批評をのせましたが、とても酷いものであると述べました。
下品である
醜い
ニジンスキーはダンサーとしては伝説的にアイドル並みの人気を誇っていましたが、振付家としてのスタートは大きなショックであったのだろうと思われます。
漫画「バレエ・リュス ディアギレフとニジンスキー」では、この初演を終えてニジンスキーが大泣きで崩れているのを描いていました。(漫画なので史実に基づくフィクション、ということになっていますが)
彫刻家ロダンはニジンスキーを抱きしめた
初演のあと、彫刻家ロダンはニジンスキーの楽屋に向かいました。当時ロダンは73歳ぐらいで、ニジンスキーは24歳ぐらい。50歳くらい歳が離れています。
ロダンはニジンスキーを抱きしめて、大絶賛をしました。
そして、ロダンはマタン紙に「春の祭典」を絶賛する文章をのせました。
古代ギリシアのような美しさ
本当に芸術を愛する人は春の祭典を見るべきである
酷評をしたファガロ紙と正反対でした。
実際、美術や衣装においてもデザイン性があり、古代ロシアの様式を元に作られているのがユニークな装飾性があります。
Concept design for act 1, part of Nicholas Roerich's designs for Diaghilev's 1913 production of Le Sacre du printemps https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rite_of_Spring
作品に対する世界観の作り込みにおいても、春の祭典の様式は独自の表現でした。
ニジンスキーはロダンの彫刻のモデルになり親交を深めた
ロダンは新しい時代の芸術に理解を示した一人であったのでしょう。
自ら創作活動を行うロダンは、ニジンスキーが創作した作品を拒絶された痛みも共感できるような人物であったのかもしれません。
ニジンスキーに彫刻のモデルになってもらい、ロダンとニジンスキーの親交を深めていたそうです。
こちらはロダン美術館の画像で、ダンサーの彫刻の塑像(?)らしきもので、私がパリで見たものです。下の画像は制作が1911年でしたので、やや前のものですが、このように創作の土台になっていたのでしょうか。
ニジンスキーは残念ながら春の祭典の振付を行った頃から徐々に体調を崩していたようです。
ディアギレフとの仲も徐々に崩れていき、急な結婚の決断も不和を招いたのかバレエ・リュスを解雇させられてしまいます。
「春の祭典」は別の振付家レオニード・マシーンが担当し、その後のバレエ界に生き続けることになります。
ニジンスキーは精神病で入院してしまい、ディアギレフたちはニジンスキーが「正気」に戻ることを願っていたそうですが、むなしく断念し、ニジンスキーは1950年に自ら命を絶って亡くなってしまいました。
生前、ニジンスキーに「春の祭典」のリハーサルを見せようと劇場に連れてきたこともあったそうです。
稽古場を見れば正気に戻るんではないかという周囲の期待とは違い、まったく反応がなかったそうです。
ただ、音楽の始まりの和音一音がかかると、椅子からハッと立ち上がりました。
でも、長くは続かずに椅子から崩れ落ちてしまったのだそうです…。
ニジンスキーのような斬新な表現は、現代であったとしたら、もう少し観客の受け止め方が異なっていたかも分かりません。
ニジンスキーの霊感に時代が追いついていなかったというのは切ないですが、それでも「春の祭典」は現代でも多くの振付家に挑戦意欲をかきたて、ベジャール、ピナ・バウシュなど20世紀後半の現代振付家も創作を行っており、21世紀になっても名作として受け継がれています。
ベジャール版 Wikipedia より
長くなりましたので、ニジンスキーや春の祭典にまつわる話は、またあらためて追記していきます。
今回の記事の内容は、クラブハウスのテーマとして「ニジンスキーの生涯」でみなさんへご紹介しました!
ここからリプレイで再生できます↓