六本木で開催されている、ヴェルサイユ美術館監修のマリー・アントワネット展を先日鑑賞してきました。
その前後のフランス文化は、バレエが芽生え始めた土壌なので見ておきたかったんです。
ヴェルサイユ宮殿《監修》 マリー・アントワネット展|日本テレビ
数奇な人生
「美術展なのに、ドラマチック。」
それが、素直なファースト・インプレッションでした。
美しさだけなく、人間として、こんな人生があったんだ…と。
マリー・アントワネットは、オーストリア・ウィーンのハプスブルク家に生まれ、15人兄弟の末っ子。真面目さには欠けていたそうですが、魅力的で生き生きとしていてみんなの心をとらえる女の子だったそう。両親も、宮廷作法にはさほど重きを置かなかったことを認めています。
国同士の政略結婚
マリーは、フランスのブルボン家王太子(ルイ16世)と結婚することになるわけですが、実際は政略結婚。
本人の意思とは関係ないところで、国の同盟のために決定されたもの。
当時はフランスがヨーロッパの中でも栄えた大国であったために、和平を結んでいればもっと小さな国のオーストリアも安泰だと考えていたのです。
でも、マリーはドイツ語がまともに書けないので、ましてやフランス語なんてできません。すぐさま、母のマリア・テレジアは一般教養を身につけさせるために、語学・文学・音楽・詩・舞踊・素描までもを教育させました。
やがて14歳になり、フランスに嫁ぐために、ウィーンの宮廷と家族とは永遠の別れをすることになります。
若過ぎる結婚、そして即位
14歳で結婚なんて、現代からしたらとても若いですよね。マリーの美しさは目を惹くものでしたが、ルイ15世(夫ルイ16世の祖父)には奔放で礼儀作法ができないことを見破られてしまいます。
しかも、夫ルイ16世は、珍しく愛人を持たなかったのだそう。(いたのが普通だったんですね)
だから余計に、欠点の目立つマリーアントワネットは批判を受けやすい状況だったのです。
やがてルイ15世が崩御し、孫のルイ16世が19歳(たぶん)で国王として即位することになります。マリーは18歳で、王妃になります。
若過ぎる自分たちに、治めることができるか、身を案じていたそうです。
世継ぎを産むまで
当時の王妃は、世継ぎとなる王太子を産まなければならない義務がありました。結婚から8年後に、女の子を授かります。次に長男が生まれ、念願の王太子が生まれます。続いて二男・二女が生まれましたが、二女は数ヶ月で亡くなってしまいます。愛する子どもたちのためにと教育をいろいろ思案していたようで、母なる愛情を感じました。
パリのファッションセンスを広める
現存するマリーアントワネットのファッションや調度品などのセンスは、美しかったです。
変化の早いパリのファッションに魅了され、マリーのファッションの版画が広まっていきました。(写真がない時代ですものね)
テキスタイルの刺繍も、大きくてひと針ひと針が細かい。原画からそっくりそのまま立体に起こされたような、これ何人で何ヶ月かかるんだ…という代物ばかりです。
マリーの母から譲り受けた日本の漆器コレクションもありました。おそらく17世紀ごろ作られたものだそうです。当時の職人が現代のこの光景を見たら、びっくりするでしょうね。
第6章 王妃に仕えた家具調度品作家たち|作品紹介|ヴェルサイユ宮殿《監修》 マリー・アントワネット展|日本テレビ
のちに財政が逼迫していってしまったことを思うと、批判もやむをえない気もしますが…。
バレエはその少し前のルイ14世(太陽王)の時代に花開き、アカデミーができていました。
マリーアントワネットも、教養のためにバレエを習い、観劇が好きだったので、プライベートの小劇場を持ったほどでした。
芸術家や職人を宮廷が雇うから、彼らの創作活動が守られた…
そうした文化の潮流が生まれたことを考えると、たんにマリーの浪費癖・個人的な趣味とだけでは片付けられない意味合いを感じますね。
優しさ、愛情、許し
私は、豪華絢爛な話より、優しさや愛情を感じるエピソードが一番心にしみわたりました。
処刑されるとき、最後に履いていたとされる、低いヒールの靴があったんです。
とても小さい足で、片方だけ。
職人の手仕事が丁寧な革のつくり。
トウのとんがった部分が、履きつぶして少し曲がっていました。
でも内側まで丁寧に塗ってありました。
(写真が見れます→ 第12章 牢獄から死刑台へ|作品紹介|ヴェルサイユ宮殿《監修》 マリー・アントワネット展|日本テレビ)
監禁されて、自由に過ごすことができず、生活に必要な衣類なども粗末なものを与えられていました。宮廷で使っていたものを与えられようとすると、装飾をすべてはずすように送り返されるほど。肌着のちょっとした刺繍でさえも、許されませんでした。
そんなときの靴です。
大事に履き潰したんだろうな。そして処刑台までこれで階段を登ったんだろうか…と思うと、胸が苦しくなりました。
はたして、死に追いやる必要まであったのか… 当時の民衆からすると自分たちの生活も困窮していたわけで。考えさせられてしまいます。
運命を受け入れる
無実な事件の罪で、国民から誤解を背負うこともありました。首飾り事件というものです。詐欺に巻き込まれ、民衆からの批判はさらに高まってしまいました。
宮廷で生活するには、常に人目に晒されることも仕方のないことでした。1人目の子供の出産の様子まで公開されてしまう始末。あまりの熱気と混乱でしばらく失神してしまったそうです。
こんなにプライベートがない生活なんて気が狂ってしまう。だからルイ16世はマリーのために私的な離宮のプチ・トリアノン(邸宅・庭園・小劇場)を建てたわけでもあります(ここでバレエやオペラも嗜んでいました)。
ウィーンのハプスブルク家に生まれ、政略結婚でヴェルサイユに生きることを余儀なくされたこと。幸せなことよりも不幸なことも多い、そんな自分の運命を、静かに受け入れていました。
裁判
フランス革命が勃発すると、一家は革命政府に監禁されてしまいます。
1792年9月21日に共和制が制定され、王権は廃止。ルイ16世が有罪判決が出ます。
ルイ16世は、たくさんの民衆に囲まれながらギロチン処刑されることに。(想像できませんよね…)
前夜、家族のことを心配しながら別れを告げると、「余計に辛くなるから」とルイ16世は一人で過ごしたそうです。
マリーアントワネットと子供はどれだけの心境であったことでしょうか…。
「私に負わされたいかなる罪に対しても無実のままこの世を去ります。私を死に追いやる人々を許しましょう。神よ、どうかあなたが流そうとしている血が、再びフランスに落ちることがないよう願います」
そんなルイ16世の最後の言葉に反して、処刑はマリーアントワネットにも向かってきます。
裁判の様子は、れっきとした証拠はあまりなく、ほとんどが日常の中傷や、誤解からの悪質な誹謗であったそうです。強引に処刑に持ち込んでいた様子がうかがえます。
マリーアントワネットには数少ない心の友人がいました。それがルイ16世の妹マダム・エリザベトでした。私的な邸宅(トリアノン)では、彼女とよく寛いで過ごしたそうです。
処刑される直前、彼女へ手紙を書き残しました。
数奇な人生で処刑されなければならない状況下でも、まだなお自分自身に対する気高い態度を持ち続けて最後まで自分を支えようとしている姿がショッキングです。
哀れな子どもたちを残していくのが残念なこと。
ルイ16世が毅然とした態度で処刑をうけたように自分もそう示したいということ。
処刑判決を下した人々を許していること。
決して仇を討とうしてはならないということ。
自分の祖先が代々受け継いできたローマ・カトリックの信仰心を抱いて死ぬこと。
自分の意に反して数々の心痛をもたらしてしまったことを詫びていること。
ルイ16世と一緒になるために死を受け入れるのだということ。
これらを書き綴った肉筆の手紙は、ぐっときました。
フェルセン伯爵
マリーアントワネットは、フェルゼン伯爵という恋人がいたのではという説があります。ヴァレンヌ逃亡事件という王家一家を危険から助けようとしてくれた人物ですが、逃亡は失敗。
マリーにとって、友達もなかなかいないという状況を想うと、同い年で心を許せる貴重な存在だったのでしょう。
革命が起きた危険な状況で、手紙でしかやりとりできなくなります。
でも、マリーはフェルゼンの身を案じて手紙を書かないよう伝えます。
フェルゼンは気持ちを受け入れ、それでもマリーたち一家をずっとサポートしようと努め続けたのだそうです。
愛している気持ちを書き綴るだけでなく、政治の状況についても書かれている節があり、王妃が革命期に政治的役割をもっていたこともわかる資料なのだそうです。
これら話は、今も研究中の史実なので、どれだけ真実なのか、実際にはわかりません。
でも、これが、地球上に存在した一人の女性の人生である…ということに、心が奥から震えました。
激動の時代があったのちに今がある。
歴史のロマンを感じて、とても良いインプットになりました。
〜〜
マリー・アントワネットの映画も思い出しました。もう一度見たら、また違った面が感じられるかな。