バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

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フランスの16〜20世紀初頭の歴史とバレエを比べてみる(国王・皇帝とバレエの関わり)

フランスのバレエと政治の流れで見る文化史を、16〜20世紀初頭中心で整理してみましょう。

世界史の概要をタイムラインで見ながら、バレエの歴史の出来事をイメージしやすくなります。

1はヴァロワ朝からブルボン朝の国王の順序とバレエの文化的な出来事を比較しています。

バレエの起源としてカトリーヌ・ド・メディシス王妃(フランス王アンリ2世の妃、イタリアのメディチ家生まれ)がイタリアの宮廷文化をフランスへ持ち込み、フランス国王によるバレエの風習が始まっていきます。

もっともこの時代のバレエは、トウシューズでも高度なテクニックでもなく、旋回、一周、対面と休止、などで催す程度のものでした。

また、演劇的な台本や役柄の整理が現代ほどなされておらず、まぜこぜに近いような状況です。

そこへ時代が下り、バレエの起こりとして有名な国王であるルイ14世が登場します。

子供の頃から国王自身が踊り、貴族らも出世のため嗜みとしてバレエに参加していました。のちに国王が踊らなくなると、専門的な舞踊手という職業が成立していき、国王は王立舞踊アカデミーの創立をしたり、バレエを学び職業にしていく人々が出現していきます。足の5番ポジションや基本テクニックが成立して行きます。

ルイ15世の頃には、マリー・カマルゴというアレグロの得意な女性バレリーナが踊りやすくするための衣装のスカート丈を短くしました。そうはいっても、クラシックチュチュのような脚線が見えるものではなく、くるぶし程度の丈を上げた程度でしたが、それまではもっと重たいスカートであったために改良されました。

ルイ16世の妃マリー・アントワネットはフランス国王に嫁ぐ前に子供時代から母の指示でバレエを習っていました。教師であったノヴェールはパリ・オペラ座のバレエマスターになり、1760年『舞踊とバレエについての手紙』を出版してバレエの筋書きや一貫性の重要さを説き、ロシア、イギリスでも翻訳されました。

やがてルイ16世の治世にフランス革命が起こります。

フランス革命が起こると、絶対王政、立憲王政、第一共和政へと変化していき、ルイ16世とマリー・アントワネットは処刑されてしまいます。革命が起こると当時のオペラ座はパリ市の管理運営となり、委員会が発足していました。

大統領制が決定しナポレオンが当選、帝政が始まり皇帝ナポレオンが即位します。

ナポレオン皇帝は自国の権威と経済力の大きさを誇示するために芸術を利用しようとオペラ座の運営に介入します。プロパガンダのもとに動かされる時代となりました。

しかしナポレオンの天下は長く続かず約十年で退位となります。

その間政令によって劇場の認可システムを設け、当時存在していた複数の劇場の中で上演レパートリーを決め、グランドオペラの内容にも細かい条件を規定しました。(幕の数、言語、題材、バレエ挿入、オーケストラの使用など)

その後もオペラ座や他の劇場も含めた芸術文化は人々の心を惹きつけ続けます。

やがて皇帝が失脚した後、王政復古でブルボン朝が復活します。

しかしルイ18世もシャルル10世も繁栄には届かず、約16年で終了し七月革命が勃発します。それまでの間、シャルル10世国王の息子(べリー公)がオペラ座で暗殺されました。それを受けて1821年に新ル・ペルティエ劇場(現在のオペラ座の前劇場)が急遽オープンしました。

1830年には七月革命が起こり、ブルボン=オルレアン家のルイ・フィリップが統治し、社会は産業革命によってブルジョワジーが力をつけていく時代に変わって行きます。

このあたりから、ロマンティック・バレエの時代が始まります。規則や理論中心から感情・人間性を解放して豊かな表現を目指そうとするロマン主義の影響を受けます。オペラ座の運営については、ナポレオン時代からプロパガンダとして利用される側でしたが、この頃にはリベラルな立場を取り戻していきました。

この頃、バレエ史としてはラ・シルフィード(1832)、ジゼル(1841)、エスメラルダ(1844・ロンドンにて)が誕生しています。

パリ・オペラ座の主役ダンサーであったジュール・ペローはロンドンのハー・マジェスティー劇場に振付家として所属したり、ほかにもダンサーが海外での公演をしたり、国境を超えてバレエの歴史が紡がれていきます。当時のイギリスではいち早く産業革命が進んで近代化が始まっていました。ロンドンでもパリのダンサーたちは観客に愛されていました。

海賊(1856年)もロマンティック・バレエの時代ですが、二月革命後の皇帝ナポレオン三世(初代ナポレオン皇帝の甥)の治世にパリ・オペラ座で誕生し、皇帝夫妻も鑑賞しました。

1858年に劇場で皇帝の暗殺未遂が勃発し、不吉を避けるため新劇場の建設を早急に決定しました。

それがのち1875年にオープンするパリ・オペラ座のガルニエ宮(現存)です。(それまでは別の劇場も機能していました)

コンペ、設計、建設、落成までに約16年かかっています。それは単に劇場の構造だけでなく、外装から内装に至るまで世界最高峰の芸術作品を結集させた建築であったことも重要です。

フランスでは普仏戦争の勃発、パリコミューン成立となり、帝政を脱却して市民の政府からの近代化が進んでいきます。

バレエとしては同時代にロシアバレエがフランスから招いたプティパを中心にクラシックバレエの黄金時代を築きます。

フランスでは男性よりも女性ダンサーを見るバレエの位置付けが強く、市民の劇場文化の熱は高まっていましたが、まだオペラの方が壮大さで圧倒していました。

そこへ1909年からロシアからパリに来たバレエ・リュスが、最初はシャトレ座、次はパリ・オペラ座で公演を行い、ロシア帝室バレエの花形ダンサーがヨーロッパへ流行をもたらしました。ニジンスキーら男性の活躍があったことも20世紀の発展に拍車をかけました。これらのヨーロッパでのバレエブーム再燃が、今の国際化されたバレエの姿に影響を与えています。

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