バレエの歴史の続きです。前回の記事では、フランスで初めてバレエが上演された時代の話を紹介しました。
今回は、バレエのもう一つの聖地とも言えるロシアの国で、初めてバレエが上演された時代の話です。
1673年ロシアで初めてバレエが上演される
フランスでバレエが根付きはじめた後、バレエはロシアへ渡り最盛期をむかえます。よく、バレエの歴史で「生まれはイタリア、フランスで発展し、ロシアで花開く」という一国に留まらない説明がなされるのはそのためです。
それでは、ロシアで初めてバレエが上演された記録はいつなのかというと、今の所わかっているのは、1673年当時ツァーリ(ロマノフ王朝2代目皇帝)であったアレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフが宮殿で行ったとされています。
アレクセイ・ミハイロヴィチ
当時のモスクワ大公国では、ヨーロッパの文化を取り入れようと関心を持ち、中でもバレエを実現させようと試みた末、「オルフェウスとエウリディーチェについてのバレエ」が1673年2月8日に開催されたそうです。観客はアレクセイとその家族、宮廷人が少数という小さな規模でありながら、豪華な舞台装置まであったようです。
そんなに小さな規模のバレエ公演が、時代を経て、モスクワでもサンクトペテルブルクでも今のような壮大なロシアバレエの歴史につながっていくとは、数奇な運命を辿っていきますね!!
ヨーロッパ文化好きは息子ピョートル1世に受け継がれる
このアレクセイの息子であるピョートル1世(ピョートル大帝)が後に5代目皇帝となり、当時の首都モスクワをサンクトペテルブルクに遷都します。ピョートル1世は子供の頃から外国人村で外国人とも積極的に友人を作り、ヨーロッパに250名の使節団を送り、自分自身も秘密で紛れ込み、当時海洋国家として栄えていたアムステルダム、ロンドン、ドレスデン、ウィーンなどを回って偵察しながら専門家や奴隷を大量に雇ったようです。*1そんな経験を持っていたツァーリは、もっとヨーロッパと物理的に近くなろうと考えたのでしょうか。
サンクトペテルブルク遷都への苦労
古都モスクワから、サンクトペテルブルクへ遷都の大きな理由は、西のヨーロッパ圏と近い場所に移すことで、貿易を盛んにして国富を豊かにしようという狙いがありました。
国土全体からみるとかなり端に位置しますが、サンクトペテルブルクに遷都したことで、実際に人々が行き来しやすくなり文化の発展がみられるようになります。
今ではサンクトペテルブルクというと、かの有名なワガノワ・バレエ・アカデミーがあり、マリインスキー劇場があり、世界のバレエの聖地の一つと呼んでもいいほどの重要な地となっています。
Vaganova Academy of Russian Ballet, Saint Petersburg, Russia.
サンクトペテルブルクは、今でこそ芸術の街と立派なイメージですが、ピョートル1世が遷都しようした時代はまだ何もない土地で、毎年大規模な洪水が発生するため、地盤を固める膨大な工事が行われ、多数の労働者の強制雇用が動員され苦労に絶えない都市建設でした。
土木労働が悪天候に見舞われ、劣悪な衣食住環境であったようで、残念ながら犠牲者も数万人規模で多かったようです。洪水と戦いながら地盤強化を目指すも困難をきわめます。
つまり新首都に入る荷馬車は一台につき五フント(一フントは役四〇〇グラム)の石を3個、船は規模に応じて一隻につき一〇フントの石を一〇個から三〇個まで市に「納める」ように義務付けた。この義務はその後六〇年以上にわたって存続した。石造りの町の基礎はこのようにして固められたのである。
(興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地 (講談社学術文庫) kindle版、第三章ピョートル大帝の「革命」より)
たくさんの労力が積み重ねられた結果、ロシアはバレエのみならずオペラも音楽も宮廷文化も西洋化が進んでいきます。そして、のちの女帝たちによる華々しい芸術文化が花開くことになっていきます。
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