バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ

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#4 《ポーランド使節のためのバレエ》から《王妃のバレエ・コミック》への進化 カトリーヌ・ド・メディシス

#1 ではカトリーヌ・ド・メディシスが《王妃のバレエ・コミック》という記録に残る最古のバレエを催したことを紹介しました。

実際、バレエの起源をどう定義するかは、舞踊や見世物が様々な要素を混在させていたり、バレエの定義をどう定めるかは専門家によっては分かれることもあります。

今回は、カトリーヌ・ド・メディシスによるもっと前の催しである《ポーランド使節のためのバレエ》について紹介します。バレエという単語は使われていますが、《王妃のバレエ・コミック》と大きな違いがあったという説がありますので紹介します。

ポーランドからの来賓をもてなす見世物

《ポーランド使節のためのバレエ》(the Ballet aux ambassadeurs polonais)は1573年に行われたとされるものです。(《ポーランド人のバレエ》と訳されることもあります。)こちらの絵をご覧ください。

1573年 ポーランド使節のためのバレエ Woodcut of a court ballet performed at the Tuileries Palace, Paris, in 1573 in honour of Polish envoys visiting to present the throne of Poland to Catherine de' Medici's son Henry, Duke of Anjou, the future Henry III of France. Sixteen court ladies, each representing a province of France, are here arranged in a figure. Among the dancers was Marguerite de Valois, Catherine's daughter.

よく見ると、#1の記事の《王妃のためのバレエ・コミック》と似ていますね。こちらは《ポーランド使節のためのバレエ》の8年後です。

Representation of a Ballet before Henri III. and his Court, in the Gallery of the Louvre. Re-engraving from an original on Copper in theBallet comique de la Royne by Balthazar de Beaujoyeulx (Paris: Ballard,1582)

どんな違いがあったのか?

左がポーランド使節のためのバレエ

右が王妃のバレエ・コミック

ポーランド使節のためのバレエ(1573年)

1573年にカトリーヌ・ド・メディシスがポーランドから訪問中の使節のためにテュイルリー宮殿で披露した見世物でした。今でいう振付家にあたるのは、イタリア出身のバルタザール・ド・ボージョワイユー(イタリア名ではベルジオジョーゾ)で、もともとヴァイオリン奏者であり、カトリーヌに音楽監督と宮廷主席従者に任命されていた宮廷人でした。

歴史家ブランドームによれば、テュイルリー宮殿の大広間で、フランスの一六の地方を表す一六人の美女を登場させて「世界に比類ない美しいバレエを見せた」という。彼女たちはみごとに規定された正確さで、さまざまな型を見せ、「旋回と一周と方向転換、交錯と混合、対面と休止」を演じた。しかし、これ以上に独創的な新しさを示し、真の意味の宮廷バレエの初めとされるのが『王妃のバレエ・コミック(演劇的バレエ)』であった。*1

つまり、ポーランドからの来賓をもてなす外交の一環として、フランスの地方の紹介を織り交ぜながら美しい女性たちが動きで型を見せたようです。フランスの地方を代表する女性たちの踊りというのは現代のわたしたちでも見てみたいなあと思うようないいコンセプトですね。

テュイルリー宮殿はカトリーヌが故郷のイタリアをモチーフに建設した美しいルネサンス様式の宮殿でしたが、現在は焼失してしまっています。

四方から取り囲む貴賓、観客からその踊りの図形の変化をたのしめたし、それが後のフィギュアーの始まりとなる。*2

観客たちは上から見下ろす形で、演じ手の動きが成す幾何学的な動きを見て楽しんだようです。

このようにして《ポーランド使節のためのバレエ》が行われましたが、その8年後の王妃のバレエ・コミックはさらに進化を遂げます。

王妃のバレエ・コミック(1581年)

同じく作者はボージョワイユーで、政治情勢を寓話風に描いたものだったようです。プティ・ブルボン宮殿の大広間で、ジョワイーズ公爵(1581年当時国王アンリ3世の寵臣)とヴォードモン嬢(王妃の妹)の結婚を祝福する催しでした。

一体どのように進化したのか?

バレエがもっと演劇化され、幾何学的な舞踊と筋書きのまとまりが良くなったこと、さらには衣装や舞台装置が豪華に見栄えするものになりました。

もう一度王妃のバレエ・コミックの絵を見ながら、以下の引用を読んでみましょう。

f:id:coruri:20190818230356p:plain

Representation of a Ballet before Henri III. and his Court, in the Gallery of the Louvre. Re-engraving from an original on Copper in theBallet comique de la Royne by Balthazar de Beaujoyeulx (Paris: Ballard,1582)

この少し前、前代の国王シャルル2世(カトリーヌの息子でアンリ3世の兄)の治世に「音楽と詩のアカデミー」を詩人アントワーヌ・ド・バイフに創設させていました。バイフは、詩と音楽と舞踊の理想的な統合を実現しようと論じていましたが、人々が好む祝祭的なスペクタクルは多岐に渡っていて、今のようなバレエという定義もまだなかったので、芸術的な区分がはっきりしていなかったのです。

前述のバイフら人文主義者たちの理論を見事に舞台化したわけで、初めて音楽と舞踊と詩の朗読と歌唱そして絵(舞台装置)を一つの筋をもった完全なドラマにまとめ、しかもそこに均衡と調和を保たせたのだった。*3

役柄も細かく配置されており、牧人の神パン、魔女キルケ、水の精、メルキュール神、ジュピター神などの個性的なキャラクターがいたようです。場面の表現も、森、洞窟、庭園、山車、と細かく設定され、神々の衣装は真珠や宝石で縁どられた金色系の衣装であったそうです。物語の締めくくりは喜びのグラン・バレエで表現されたのだとか。一つの作品としてさまざまな総合芸術に気を配っていたことがうかがえます。絵にも舞台美術らしきものが見てとれますね。

こうしたことから、私はバレエが総合芸術になった礎であったのかなと感じます。バレエがストーリー(詩の言葉)を持ち、視覚に魅力ある美術(衣装)のもとで、音楽に合わせた舞踊がある。それらが意味なく短絡的にバラバラで一つの舞台に上演されたら、観るものとしてもごちゃごちゃな展開に見えてしまいますが、様々な芸術要素がきちんとまとまりある構成に仕上がったという点で、記録に残る最古のバレエと捉えられている(学者によりますが)のだろうと思いました。

まだバレエとはいえ、宮廷バレエ(バレ・ド・クール ballet de cour)という時代のものですが、昔の見世物や宮廷バレエにも興味が湧いてきますね。

その後もバレエは時代ごとに少しずつ変容していきます。バレエの起源であるイタリアは、舞踊こそなくならなかったものの、混成的な見世物から徐々にオペラへと発展していったようです。オペラとバレエはその後も兄弟のような関係でそれぞれ進化していくことになります。

参考 ヴァロワ朝カトリーヌ・ド・メディシスの周囲の系図

カトリーヌ・ド・メディシスの周囲のヴァロワ朝の人物たちが複数出てきて少々わかりにくいので、簡単な図をのせておきます。

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*1:伊藤洋、2004年『宮廷バレエとバロック劇 フランス一七世紀』、早稲田大学出版部、p8

*2:原田宿命、2000年『ルネサンス舞踊紀行』、未来社、p170

*3:伊藤洋、2004年『宮廷バレエとバロック劇 フランス一七世紀』、早稲田大学出版部、p8