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#3 ルイ14世の治世の時代背景 〜重商主義、ヴェルサイユ宮殿、科学アカデミー〜(バレエと世界史3)

前回は、ルイ14世の時代にバレエがフランス国王自ら踊り、バレエが栄えていくためのオペラ座やバレエ学校の基礎がつくられた話を紹介しました。

今回は、ルイ14世の時代にフランスはどうして最盛期をむかえ、ヴェルサイユ宮殿が建てられ、絶対王政のもと芸術にも力を注ぐことができたのか?その背景にふれてみます。

バレエの歴史では、ルイ14世の踊っていたという話は有名ですが、どのような時代背景であったのかについても知っておいていいのではと思いますので取り上げてみます。

(このバレエと世界史シリーズの記事は、時間軸が途中入れ替わることもあるかもしれません。できるだけ前置きを入れながら、まとめていきます。)

ルイ14世の右腕となったヒーローたち

ルイ14世の政治がフランスの国の状況を知るのに役立ちます。そのためには、ルイ14世の時代に担当した政治家がいました。ルイ14世が子供のころの政治を補佐したのが宰相マザラン。成人してマザラン亡きあとは財務総監のコルベールが大事な存在となりました。

前半と後半に分けてみてみましょう。

前半:宰相マザランの補助時代に絶対王政が完成

ルイ14世は4歳で王に即位しました。まだ幼い王のために、ルイ14世の母である王太后アンヌ・ドーリッシュが摂政となり、国政の舵取りをする宰相(王を補佐して政治を行う人)には、マザランを任命したのでした。王の教育係として、帝王学も教えました。

前の王ルイ13世の頃から参戦していた三十年戦争が終結し、アルザスの地を獲得するに至りました。

それに安堵するのもつかの間、フランス国内で王に反発する人々の反乱が起こります。

農民は重圧に苦しみ、国王役人たちも不満を爆発させます。小さな一揆は各地で起こりましたが、特に大きな反乱がフロンドの乱です。王の好き勝手に勢力が決まっていくのを恐れた反対派の貴族たちが、フロンドの乱を起こしました。いっときは無政府状態に陥ってしまうほど混乱しました。鎮圧するには時間がかかり、経済的にも打撃でした。ルイ14世も自ら戦線で戦いました。これが最後の反乱となり、最終的に貴族が王に屈服した形になりました。

これで、王に権力を集中させて、絶対王政が強固な体制となったのです。

やがて、マザランは1661年に亡くなりました。その時ルイ14世は22歳で成人です。マザランは亡くなる直前までルイ14世に今後の助言を残したようです。ルイ14世は、マザランの助言があってか、今後は親政(自ら政治を行う)を始めることにし、宰相は置かないと決めました。周りの王族で権力を奪われそうな人も、摂政の母までも政治から引き離すことにしました。

ルイ14世は物事を自分で判断し、周りの助言や様々な補助があったとしても、最終的には王である自分自身が決定をしていたため、意思決定や判断能力は備わっていました。

後半:親政時代(王自ら政治)の財務総監コルベール

ジャン=バティスト・コルベール

親政が始まった当時、フランスは財政難でした。反乱を鎮圧したり、戦争をしていたことで、経済的に余裕がなかったのです。

そこで、財務総監(大蔵大臣のような人)にコルベールが任命されます。コルベールは、マザランが任命につながる縁を取り持ってくれたのですが、もともとマザランの巨額な資産を管理していた人物で信頼の置ける人物でした。

コルベールの財務政策によって、みるみるフランスは財政を改善させていき、あの有名なヴェルサイユ宮殿を建てるまでに至ります。

国の財源面で効果をあげたのは、税制改革と重商主義政策です。重商主義とは、国家が海外との貿易(輸出)を通じて、金銀を得て国富を豊かにさせようとする政策です。フランスには金山銀山がなく、いくら税収を上げても限界があることを考え、徹底的に重商主義政策に取り掛かります。

コルベールは、当時重商主義で力をつけていたオランダとイギリスにならって、フランスも乗り出すべきだと考えたのです。ルイ14世になんとか説得をしたようです。その結果、王族たちが資金を出すことになりました。外国産の贅沢品の輸入を禁止したり、高い関税を課しました。輸出を増やすためには安価で良質の品々を生産できる体制を整えました。

ポンディシェリ港のインド会社の貨物倉庫

実は、ルイ13世の治世からすでに設立されていたフランス東インド会社がありましたが、ほとんど機能していなかった状態でした。これをコルベールが再建して成功させ、ルイジアナ植民地を建設するに至ります。細部の人道的な観点は別として、財政的にはかなりの収益を上げていたようです。

ヴェルサイユ宮殿

こうしてヴェルサイユ宮殿の建設にも取り掛かります。ヴェルサイユ宮殿は「出費が膨大でただの贅沢だったのではないか」と思われやすいのですが、文化政策でもあり、国民からの支持集めと貴族たちの暴挙を制圧する効果もあったそうです。

大トリアノン宮殿

建築の設計から工事中の細やかな点もルイ14世が自らの決定で進められていきました。

建設後は、原則として誰もがヴェルサイユ宮殿を見学することができ、フランス国土の地方都市の中央には国王広場が建設され、王の彫像が建立されました。王の偉大さを人々に感じさせる宣伝効果として働きます。また、大貴族たちを住まわせ、ステータスを与えながら王の機嫌をとろうと競争しあいます。そうすることによって、フロンドの乱のような大貴族の反乱が起こるのを押さえる効果もありました。

ヴェルサイユ宮殿の造営費用(1664〜1715年と長く見積もって)は8200万リーヴルで、1683年(ルイ14世がヴェルサイユに住み始めた翌年)の軍事費の1.3倍に相当したそうです。フロンドの乱並みの大規模な長い反乱が続くことを抑制できるという意味では功を奏していたようです。(聖なる王権ブルボン家 (講談社選書メチエ))

コルベールは科学者・芸術家たちも支援し、ルイ14世のイメージアップにつながった

科学アカデミーを訪れるルイ14世

コルベールは、1669年の「フランス・オペラ詩歌アカデミー」(パリ・オペラ座バレエによる訳を引用)の設立を扇動したと言われます。(https://www.operadeparis.fr/en/artists/discover/the-paris-opera/history 1669年参照)他にも、コルベールは、パリ天文台やフランス科学アカデミーの設立にも寄与したと言われます。イギリスは王立協会を設立させて近代科学に着手していたので、我が国にも新規性のある発見や技術革新を行えるように、と自宅の書斎を科学者たちのサークルに会合場所として提供したりもしていました。また、国にとって重要な文化人に年金を与え、優秀な外国人も同じく雇い入れたりとアイディアマンでした。こうした細やかな政策もあってこそ、芸術の都パリが発展していくのだなと個人的にしみじみ感じてしまいます。

ルイ14世の晩年

晩年のルイ14世とその家族。 左から曾孫のブルターニュ公ルイと家庭教師、嫡男の王太子ルイ、ルイ14世、孫のブルゴーニュ公ルイ。 作者不明、1710年頃。

浮き沈みを繰り返しながら、戦争が続きずっと安定していたわけではありませんでした。ナントの勅令廃止をして国内の商人が海外に逃亡し、経済活動も減少。そして陸軍を強化し対外戦争にも行きますがあまりうまく立ち行きません。

ルイ14世と聞くだけでヴェルサイユ宮殿のイメージが浮かび豪勢なイメージがもたれるので、オペラ座も相当に援助を受けて庇護されていたのではないかと思われがちですが、当初のオペラ座自体も完全な資金援助を受けていたわけではありませんでした。私企業的で、王から独占を認めてもらっていた状態でした。

社会としてはフロンドの乱のようなものは無いにしても、国民からも徐々に支持が薄れていき晩年を過ごしていきます。

なんとも終わり方は悲しいものですが、まだブルボン朝は次のルイ15世に受け継がれ、さらに次のルイ16世でさらに経済的打撃で落ち込んでしまい、フランス革命が勃発することになります。

この17世ごろのフランスは、社会構造が特に大きく動乱していく最中ですが、バレエは絶やされることなく、ひっそりとその時代ごとの人々の精神に受け継がれていきます。

ルイ14世は、オペラ座のバレエ団員たちが仕事に集中できる環境を作れるように整えたり、学校の生徒にも負担がかかりにくくするための取り決めを設けていました。(これもコルベールの進言であったのか…?)これらがなければ、もしかするとバレエは宮廷の貴族や王が楽しむだけの踊りになって終わっていたのかもしれない…と思うと、バレエの門戸を開こうとした理解あるルイ14世、そしてコルベールの先見の明は着目されるべき存在であると思われます。

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