バレエの歴史の続きです。前回は#5 バレエがフランスからロシアへ渡った〜1673年皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチ(バレエと世界史5) - バレエヨガインストラクター三科絵理のブログを紹介しました。
今回は、ロシアにまだバレエダンサーがいない時代に自国のバレエを養成していくための舞踊学校を設立させた、アンナ女帝の話です。
ロシアに初めてのバレエ教育が始まる
当時イタリア、フランスでは舞踊を職業にしている人が登場していましたが、ロシアではまだバレエがありませんでした。
ロシア最古のバレエ学校、ワガノワ・バレエ・アカデミーの前身となる舞踊学校を創立させたのは、ロシア帝国の女帝アンナ・ヨアノヴナでした。1738年のころです。
見世物を鑑賞するアンナ女帝(Court jesters of Empress Anna Ioanovna; painting by Valery Jacobi)
ヨーロッパ文化に親しんでいたアンナ女帝とは
1730年、アンナ・ヨアノヴナ女帝は、父のピョートル2世が亡くなった後に後継者として選ばれました。
彼女は外国に嫁いでいたのですが未亡人となっていました。
クールラント公国(ポーランドのあたり)のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラーと結婚したあと直ぐに夫が急死してしまったのです。昔のロシア貴族はヨーロッパの貴族と婚姻関係を結ぶことはよくあることでした。
夫が亡くなったあとはクールラント公国の主権者となっていましたが、ロシアの女帝になることが決まりました。
知らせを聞いてアンナはモスクワに帰ります。すると、保守派の貴族らが皇帝の権力を大幅に制限させようと準備しており、アンナに無理やりのませようとしていました。この時代は皇帝より貴族が自分たちの都合の良いように権力をにぎろうと図っていたのです。
でもアンナは強固に跳ね除け、貴族たちの組織していた最高枢密院を廃止させます。なんと強い女帝。そして皇帝の専制政治を復活させることに成功します。実際の政治は、さほど教育を受けてこなかったために臣下に任せていたようですが、ドイツ語を話し西欧に近い国で生活していたので、当時文化面で遅れていたロシアに西欧文化を取り入れることに力を注ぎました。
ペテルブルクが「北のパリ」
ピョートル1世が建てた新都ペテルブルクは、ロシアの中でもヨーロッパの玄関口となる西側です。
アンナ女帝はペテルブルクでどんどん西欧文化を花開かせ、まるでペテルブルクが「北のパリ」であると呼ばれたようです。
かなり派手であったようで、舞踏会や花火の豪勢な祭りなどを頻繁に開催していたとの話もあります。
宮廷でバレエを開催するようにもなります。でも当時にはロシアでバレエを踊れる人がいないため、イタリア、フランス、ドイツなどからバレエや劇団を招いていたようです。
そこで、バレエを自国にも育てようと試みます。
フランス人ランデがロシアで最初のバレエ教師
1731年にロシアにはじめてのバレエ教師をフランスから招き入れます。ジャン・バチスト・ランデが貴族幼年学校の舞踊教師になりました。アンナ女帝自身もメヌエットやカドリールを習ったそうです。
女帝陛下の舞踊学校
そしてついに、1737年に「女帝陛下の舞踊学校」を開設することが認められ(文化事業に皇帝の許可を得なければいけないことがたくさんありました)
このようにして、ロシアにはじめてのバレエ学校が誕生します。
時代を経て、バレエの理論を整理して体系化させた名教師アグリッピーナ・ワガノワの功績をたたえて、ワガノワ・バレエ・アカデミーとなっているのです。
以下は私の雑感です。
いまやロシアバレエが発展しなければ、イタリアとフランスで誕生してきたバレエ自体もどの程度生き残っていたかわかりません。ロシアでバレエが発展すると、ヨーロッパのバレエ以上に芸術性の表現すぐれたダンサーが台頭し、バレエリュスがフランスを驚かせました。
さらにソビエト時代のロシアバレエも世界的にレベルが高く、優れたダンサーたちは危険な情勢を恐れてアメリカやヨーロッパに亡命していきました。それがまたバレエのレベルを世界的に引き上げる要因になったことは否定できないことでしょう。
ルドルフ・ヌレエフ、ミハイル・バリシニコフ、ジョージ・バランシンなどの伝説の人物たちばかりです。
歴史に「もしも」はありませんが、想像してみるとロシアバレエの影響力の大きさを感じることができますね。
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