ロマンティック・バレエの時代の先駆けで活躍した、歴史上で重要な父娘(親子)がいます。
それは、トウシューズでほぼ初めて踊ったバレリーナ「マリー・タリオーニ」とその父でバレエ振付家の「フィリッポ・タリオーニ」です。
よく二人のことを「タリオーニ親子」「父タリオーニ」「タリオーニ嬢」などと呼ばれることが多いです。
この二人は、1830年ごろロマンティック・バレエの始まりとなった「ラ・シルフィード」の振付と初演を手がけたことで有名で、この作品をきっかけにクラシック・バレエでトウシューズが登場するようになりました。
今回は、タリオーニ父娘の人生について取り上げてみます。
父フィリッポ・タリオーニはプレ・ロマンティック・バレエの代表的振付家
まず、父のフィリッポ・タリオーニについてです。Filippo Taglioniは、1777年〜1871年の時代の人で、1830年〜1860年のロマンティック・バレエの始まりの時期に「ラ・シルフィード」の初演振付を行った人物です。
- 1777年 イタリアで生まれる
- 1803年 ダンサーのソフィー・カルステンと結婚(母は有名なオペラ歌手クリストファー・クリスチャン・カルステン)
- 1804年 マリー・タリオーニが生まれる
- 1808年 ポール・タリオーニが生まれる(のちにダンサーになる)
- 1814〜1815年 当時ウィーン会議が行われた時代。ウィーンを中心に市民生活の文化が花開く「ビーダーマイヤーの時代」
- ウィーン宮廷歌劇場で勤務することになり、家族はパリに残して、フィリッポはウィーンで暮らす。
- マリーが10代半ばでバレエの修行をしに来る。
- 1821年 「ナタリー、またはスイスの乳搾り娘」パリ
1822年 マリーをウィーン宮廷歌劇場でデビューさせる。「若いニンフ、テルプシコールの宮殿に迎えられる」(音楽 ロッシーニ)
1826年 「ダニーナ、またはブラジルの猿ジョッコ」シュツットガルト
- 1832年 マリー・タリオーニ主演の「ラ・シルフィード」を初演して名声を得る
- 1871年 イタリアで亡くなる
フィリッポ・タリオーニは、1800年代前半でロマンティック・バレエの前に当たる「プレ・ロマンティック・バレエ」の時代から活躍していた振付家です。
そこからロマン主義の時代の潮流で、空想や妖精というテーマが流行るようになったとき、ちょうどラ・シルフィードの創作ができ、娘のマリーを主演させることができました。
マリーがバレリーナになれたのも、父の修行の影響が大きかったため、当時のバレエの実力派振付家でした。
マリー・タリオーニ
マリーは1804〜1884年の時代を生きた、ロマンティック・バレエの有名なバレリーナです。ラ・シルフィードといえばマリー・タリオーニのことだと言われたほど、彼女のほかにイメージが浮かばないくらいに十八番の作品となりました。
1804年 スウェーデン・ストックホルムで生まれる。父と母については上記のフィリッポの通り。
生まれつき肩と背中が曲がっていたため、バレエにはあまり向かないのではと思われていたが、バレエを習い続ける。
父がウィーン勤務となり、母とパリで暮らす。バレエ教師ジャン=フランソワ・クーロンに習う。
10代半ばの頃、バレエの技術を高めるためにウィーンにいる父フィリッポのもとへ行く。1日6時間のレッスンを週6回、2年間行った。
1822年(18歳ごろ) ウィーン宮廷歌劇場でデビューする。
5年ほど、ウィーン、ミュンヘン、シュツットガルトなどで踊る。
1827年 パリ・オペラ座でデビューする。バレエ「シシリー人」で人気を得る。
1832年 「ラ・シルフィード」で主演。大流行する。トウシューズを初めてバレエ作品として効果的に技法を用いた。ロマンティック・チュチュの衣装スタイルも確立し、ロマンティック・バレエ、バレエ・ブラン流行の始まりとなる。
イギリスのヴィクトリア女王もタリオーニのファンになり、競争馬の名前に「タリオーニ」を名付けた。
マリーのヘアスタイルをまねる人が増え、シルフィードの人形や、さまざまな関連商品が流行した。
1830年ごろ 他のバレリーナで「ファニー・エルスラー」が人気を得て、マリーと比較してバレエの人気バレリーナについて「タリオーニ派」か「エルスラー派」か盛り上がっていた。
1837年 ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場へ移籍。
1842年 マリインスキー劇場を引退
1843年 ミラノで「ラ・ペリ」を踊る
1845年 ロマンティック・バレエの人気バレリーナ4人を共演させた「パ・ド・カトル」に出演し、この時代の代表作になる。ロンドンにんて初演、ジュール・ペロー振付。カルロッタ・グリジ(ジゼル初演)、ルシル・グラーン、ファニー・チェリートと共演。
1845年頃、タリオーニら「パ・ド・カトル」https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%2590%25E3%2583%25AC%25E3%2582%25A8
1847年 引退
1859年 パリ・オペラ座の芸術監督になる。試験の新制度を確立する
1860年 唯一振付をした「パピヨン」発表。秘蔵っ子のエンマ・リヴリのために振付をした
1870年 ロンドンへ行く。社交界や子供たちにダンスを教えた。メアリー王妃(のちジョージ5世の妃になった人)にもおじぎの仕方を教えていた。
1884年 フランス・マルセイユで亡くなる
マリー・タリオーニはトウシューズでほぼ初めて踊ったバレリーナ
1830年ごろトウシューズの技術が誕生し、マリー・タリオーニは歴史上の中で最初に履いて有名にしたバレリーナです。厳密には、諸説あり他のバレリーナが踊っていたとか、マリーが他の作品で踊っていたらしいという説もありますが、実際に空中をふわふわと舞い踊り、効果的にトウシューズをバレエを披露できたのは、実質マリー・タリオーニが最初のバレリーナであると位置付けられています。
「ラ・シルフィード」のバレエで最初のトウシューズが有名となり、のちの現在のトウシューズにつながっていくきっかけになりました。
現代のトウシューズ
マリー・タリオーニたちが履いていたトウシューズは、サテンの生地でできた靴ではありましたが、つま先を縫いとじて補強したくらいの構造で、現代のような芯材やのりで固めたようなものではなかったため、安定感が出しにくく、ダンサーには立ちにくい靴でした。それでも、床の上と空中の間となる、ポアントによって生み出された「第三の平面」が芸術的で空想の世界を表現するのにぴったりでその後のバレエの代名詞ともいっていいほど浸透していきます。
それまでの時代のバレエの靴の流行は、ギリシア風の編み上げブーツであったといいますので、古代ローマ風のスタイルの流行が影響していたのかもしれません。
世の中でも古代ギリシア・ローマ風のドレス、ドレープ、サンダルなどが流行っていて、ナポレオンの妃ジョゼフィーヌもローマ風のドレスを好んで着ていました。
ロマンティック・バレエとロマン主義 トウシューズの始まり・精霊・空想の世界 - バレエヨガインストラクター三科絵理のブログ
歴史の記録上で最も古いトウシューズらしき情報は、1831年「フローラとゼフィール」というバレエの石版画(A.E.シャロン作)にマリーがポアント立ちをしている絵があると言います。
また、もっと古い言い伝えでは、1815〜1822年ごろのロシア・サンクトペテルブルクで、ロシア人バレリーナのアヴドーシャ・イストミナがつま先立ちしていたのを見たという目撃情報が、A .ゲルシュコフスキー(ディドロの有名な弟子)によって言われがありますが、詳しいことはよくわかっていません。
ラ・シルフィードの空気の精というキャラクターにトウシューズが似合いますし、見せつけるのでもなくあっさりと控えめに使われた印象がまた、トウシューズへの人々の憧れを高めていたのかもしれませんね。
「ラ・シルフィード」の作品ができるまでのエピソードはこちらもご覧ください。